庲降都督の駐在地を移す
南方の建寧郡は蜀に逆らう勢力が強く、太守の正昂が殺害され、代わって赴任した張裔が捕縛され、呉に追放されるといった事件が発生していました。
このため、庲降都督は危険を避けるため、安全な平夷県に駐在するようになっています。
馬忠はこれを改め、政庁を奥地にある味県に移し、蛮族の居住地に駐在しました。
これによって地域への影響力を強めつつ、反乱勢力が支配していた越巂郡に攻めこみ、領地を取り戻すことに成功します。
馬忠はこの功績によって安南将軍となり、彭郷候に爵位を引きあげられました。
帰朝してさらに地位が高まるも、やがて死去する
242年になると成都に帰還し、その後で漢中に赴き、諸葛亮に代わって蜀軍を率いていた蒋琬に会い、劉禅からの詔勅を伝えています。

そして鎮南将軍の地位を加えられました。
244年には、魏が漢中に軍を差し向けてきたため、大将軍の費禕が出陣します。
この際に、馬忠は成都に留まり、国の政務を司りました。
蜀は諸葛亮、蒋琬、費禕の三人が宰相を務めましたが、馬忠は常に彼らを支える働きを見せており、蜀の重臣の一人だったのだと言えます。
費禕が帰還すると、馬忠は南方に戻りましたが、やがて249年に亡くなりました。
子の馬脩が後を継いでいます。
現地で祭られ、高く評価される
馬忠は思いやりがあり、気前がよく、よく冗談を言って大笑いをし、怒りを表に出さない人柄でした。
しかし事にあたっては決断力に優れ、威光と恩徳を備えていたために、蛮人たちは馬忠を畏怖しつつも敬愛します。
死去するに及び、進んで葬儀に参列し、涙を流して哀悼の意を表さない者はいなかったと言われています。
馬忠のために廟堂が建てられましたが、三国志が書かれた頃(280年ごろ)には、まだ現存していたと記されています。
張表という当時の名士がおり、高尚な人物としての評価は、馬忠以上でした。
また、閻宇は長年に渡って業績をあげ、職務に熱心な人物で、彼らはいずれも馬忠の後任を務めています。
しかしながら、威厳と、称賛される功績を挙げた点においては、どちらも馬忠には及ばなかったと評されています。
馬忠評
三国志の著者・陳寿は馬忠を次のように評しています。
「馬忠はおとなしい人柄であったが、決断力に優れていた。
自己の長所を発揮し、名声をあげて出世したのは、彼を必要とする時代にめぐり合ったためである」
蜀の南方は異民族が多く住んでおり、このためになかなか統治が及びにくく、反乱も頻発していました。
一方で、南方は物産が豊かなことから、蜀にとっては抑えておきたい地域でもあり、そこを統治できる人材が求められます。
馬忠はそれにこたえたことで、名を残した人物なのだと言えます。


