馬良は劉備に仕え、外交官や側近として活動した人物です。
字を季常といい、荊州の襄陽郡宜城県の出身でした。
187年に誕生しています。
【許昌に設置された馬良像】
馬氏の五常
馬氏には馬良を含む五人の兄弟がおり、いずれも秀才だと評判になっていました。
このため郷里では「馬氏の五常、白眉もっともよし」と語られています。
これは「馬氏には五人の兄弟がいて、その中で白眉(馬良)が最も優れている」という意味です。
「五常」は、兄弟全員の字に「常」が使われていたことから、こう呼ばれました。
また、馬良は眉に白い毛が混じっていたので、白眉というあだ名で呼ばれたのです。
これが秀でた人物を指す「白眉」の語源になりました。
劉備に召し出される
劉備は208年に曹操に赤壁で勝利し、荊州南部の支配者になります。
するとやがて馬良を召し出し、従事(幕僚)に任命しました。
馬良は諸葛亮と義兄弟か、あるいは血縁関係にあったと言われています。
このため、諸葛亮が劉備に馬良を推薦をしたのでしょう。
この頃に弟の馬謖もまた従事になっており、兄弟がそろって劉備に仕えることになりました。
なお、馬良が五人兄弟のうちの四男で、馬謖が五男でした。
上の三人の兄たちは仕官をしなかったようで、名前が伝わっていません。
諸葛亮に手紙を送って益州に向かう
やがて劉備は益州に遠征し、領主の劉璋を攻撃します。
そして214年には重要拠点である雒城を攻め落とし、劉璋を追いつめました。
この時に諸葛亮は益州におもむいて攻撃に参加していましたが、馬良は荊州に留められています。
馬良は自分も益州に行きたいと思い、教養を活かした典雅な手紙を諸葛亮に送りました。
少々長いのですが、以下に紹介します。
「雒城はすでに陥落したと聞きましたが、これは天の下した幸いであると言えます。
尊兄(諸葛亮)は世の立て直しに力を尽くされ、大業の樹立に関わり、国家に光をもたらしておられますが、その成功の兆しはすでに現れています。
変化に対して必要なのは優れた思慮であり、判断において必要なのは、明察を働かせることです。
才能のある者を選びますれば、時代の求めるものに適合するでしょう。
叡智をあらわにせず、遠くにいる人々を喜ばせ、天地にまで徳を発揮し、世の人々が道理に従うことが、かなうといたしましょう。
これは高雅な音を鳴らして淫らな音をただし、他の音を乱すことなく調和を保つ至高の演奏であり、伯牙や師曠といった琴の名人たちの調べと同じです。
鍾子期(伯牙の演奏の理解者)ではありませんが、私もまた、これに合わせて拍子を取らないでおられましょうか」
馬良は諸葛亮らの行動を優れた音楽の演奏に例え、自分もその拍子を取るのに居合わせさせてほしい、つまりは益州に呼んでほしいと伝えたのでした。
まわりくどいと言えばまわりくどいですが、馬良にはこういった手紙を書ける教養が備わっており、かつ積極的な面がありました。
諸葛亮はこれを読んで劉備に伝えたところ、劉備は自らの官位である左将軍の掾(属官)として、馬良を益州に呼び寄せます。
孫権への使者を務める
やがて馬良は、呉の孫権への使者を務めることになります。
その時に、孫権と面識がある諸葛亮に、紹介状を書いてくださいと頼みました。
すると、馬良の文才を知っている諸葛亮は「君が自分で作ってみなさい」と答えます。
このために馬良は自分で自分を紹介することになったのですが、その文章は次のようなものでした。
「わが君(劉備)は掾の馬良を派遣し、ご挨拶をしてあなたとの友好関係を保ち、昆吾氏や豕韋(いずれも古代中国の覇者)の勲功を受け継ぐ所存です。
この者(馬良)は立派な人物で、荊州出身の善士です。
一時の華やかさには乏しいものの、最後まで持続する美を備えています。
願わくは御心を曲げて受納され、お取り次ぎ役によろしくおとりはからいください」
これを読んだ諸葛亮は、そのまま用いるように馬良に告げました。
馬良がこの文書を携えて呉を訪れると、果たして孫権は、敬意を持って馬良を処遇します。
自分で「立派な人物」と書いてしまうところがおかしくもありますが、馬良は自分には華やかさはないものの、持続的に物事に取り組んでこそ、光るものがあると自負していたようです。
このことから、馬良は努力して教養を身につけ、知性を磨いていた人物だということがわかります。
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