侍中となる
劉備は221年になると、蜀漢の皇帝に即位しました。
すると馬良は侍中に任命されています。
これは皇帝の身辺に仕え、質問に答えたり、奏上を取り次いだりする役目です。
つまりは皇帝の顧問官に就任したわけで、馬良の誠実さと学識が、劉備に評価されたのでした。
荊州への遠征に参加する
そして翌222年になると、劉備は孫権に奪われた荊州に攻めこみます。
馬良は孫権との友好のために使者になっていましたが、その後、孫権は荊州南部を全て支配下に置くため、関羽をだまし討ちにして奪い取っていたのでした。
なので、劉備は関羽の復讐と荊州の奪還のため、大軍を動員して攻めこんだのです。
この時に、劉備は馬良にも任務を与え、武陵郡に住んでいる、五渓という異民族を帰順させる仕事を担当させました。
馬良はこの仕事を首尾よくこなし、五渓の頭領たちに、蜀の官位と称号を授与することに成功します。
劉備は馬良の人柄であれば、異民族に対しても丁重に接し、彼らの気分を損なうことなく、友好関係が作れると判断したのでしょう。
やがて五渓は呉軍に攻めかかるようになり、蜀は戦力を増加させることができました。
こうして馬良は実務能力があることを示したのですが、間もなく死去することになってしまいます。
劉備の敗北によって死去する
劉備は当初、有利に戦況を進めていたものの、荊州への侵攻を進めるにつれ、その陣は長大なものとなり、個々の拠点の防備が薄くなっていきました。
すると敵将の陸遜にその弱点をつかれ、総攻撃を受けると蜀軍は各個に撃破され、壊滅状態に陥ります。
この時に、劉備の側に従っていた馬良も敗戦に巻き込まれ、殺害されてしまいました。
享年は35でした。
こうして馬良は、その才能を十分に発揮しきる機会を得られないままに、世を去ることになります。
皇帝の側近である馬良が戦死したくらいですので、他にも多数の幕僚・将軍が戦死しており、蜀は優秀な人材を一気にまとめて失いました。
この敗戦の痛手は、その後の蜀を人材不足という形で、たたっていくことになります。
馬良評
三国志の著者・陳寿は「馬良は誠実で、良き士人だとして称賛された」と短く評しています。
それ以外には『季漢輔臣賛』という、蜀漢の臣下たちを称賛する文章においても、「馬良は誠実だった」と同じように評されています。
とかく誠実だったというのが、馬良に対して人々が抱いた、最も強い印象だったようです。
馬良は人柄がよく、知性に優れた人物だったのでした。
諸葛亮が名前を出す
馬良が亡くなってから数年後、諸葛亮は北伐を実施し、やがて涼州で姜維を配下に加えました。
この時に諸葛亮は「姜維の持っている才能は、季常(馬良)でも及ばないものがある」と評しています。
ここでは姜維を称賛しているのですが、優れた人物のものさしとして馬良の名が上がっていることから、馬良への評価も高いものだったことがうかがえます。
馬良が優れていると認識されていなければ、姜維への言葉は称賛にならないからです。
このようにして馬良の名は、亡くなった後でも諸葛亮に語られることがあったのでした。