李典は曹操に仕えた将軍で、政治家でもありました。
学問を好む性格で、兵を指揮する際には後方支援の任務が多かったのですが、優れた洞察力と判断力を備えていたため、前線任務に携わるようになります。
そして各地で戦功を立て、将軍位と爵位を得るほどに活躍しました。
謙虚で他人を尊重する人柄で、曹操に忠実に仕えた点も評価されています。
この文章では、そんな李典の生涯を書いています。
山陽に生まれる
李典は字を曼成といい、兗州の山陽郡、鉅野県の出身でした。
生年は不明となっています。
若い頃は学問を好んでおり、軍事は好みませんでした。
師について『春秋左氏伝(歴史書)』を学び、それ以外にも、広く様々な書物を読みこなしています。
曹操はこのような、李典の学問に熱心な性格を好み、統治者として起用する意向を持っていました。
しかしやがて叔父の李乾の影響を受け、軍勢を率いる立場に就くことになります。
叔父が曹操の元で活躍する
李乾は雄々しい性格の持ち主で、食客を数千人も集め、乗氏県で勢力を築いていました。
このことから、侠気のある性格だったのだと思われます。
初平年間(190-193年)には軍勢を引き連れて曹操に従い、寿張において黄巾賊を打ち破る手柄を立てています。
またその後、袁術を攻撃し、徐州を征討する戦いにも参加しました。
陳宮らの反乱の際に死去する
やがて曹操の配下だった陳宮や張邈らが、呂布を招き入れて謀反を起こし、兗州の大半を占拠する事件が発生します。
すると曹操は李乾を乗氏に戻し、諸県を統括させました。
この時に呂布の別駕(補佐役)の薛蘭と、治中(属官)の李封らが李乾を勧誘し、反乱に加わるように促してきます。
しかし李乾はこれを拒絶し、そのために殺害されてしまいました。
李整の後を引き継ぐ
曹操は李乾の子・李整(李典の従兄弟)に残った兵を率いさせ、諸将とともに薛蘭と李封を攻撃させました。
彼らを打ち破ると、李整は曹操に従い、兗州の諸県を平定する功績を立てます。
そして次第に昇進し、青州の刺史(長官)にまで立身しました。
やがてこの李整も亡くなると、李典が潁陰の県令と、そして中郎将(上級指揮官)にもなり、李整の軍を率いるようになります。
このように、一族の軍を引き継ぐことによって、李典は当初は好まなかった軍事に携わるようになったのでした。
叔父と従兄弟が亡くなったことによって、一族の長を務めるようにもなったのでしょう。
立場が向上した影響もあってか、やがて李典は離狐郡の太守に昇進しました。
当初は物資の輸送を担当する
李典が軍を率いるようになった頃、曹操は袁紹と官渡で対峙していました。
この時に、李典は一族と部下を引き連れ、穀物と帛を輸送する任務を担当しています。
曹操は李典の性格からして、後方任務が適任だと考えたのでしょう。
しかし李典には秘めたる才能があり、やがて軍事でも活躍するようになっていきます。
袁紹が打ち破られると、李典は裨将軍に昇進し、安民に駐屯しました。
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