李典 一族を率いて曹操に仕えた、文武両道の将軍

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積極策を述べて敵を打ち破る

やがて敗北した袁紹が病死すると、その子の袁たんと袁しょうが引き続き敵対したので、曹操はこれを討伐します。

そして黎陽れいようを攻撃した際に、曹操は李典に、程昱ていいくらとともに船で兵糧を輸送する任務を与えました。

ちょうどこの時、袁尚は魏郡太守の高蕃こうばんに命じ、黄河のほとりに駐屯することを命じています。

そして高蕃が水路を断ち切ったので、曹操は李典と程昱に「水路が通れないようであれば船から降り、陸路を通って物資を輸送せよ」と命じます。

しかし李典は諸将と対応を相談した際に、こう述べました。

「高蕃の軍は装備が整った兵士が少ない上に、黄河の防衛力を頼んで気が緩んでいます。

なので彼らを攻撃すれば、間違いなく勝利できるでしょう。

軍は戦場においては朝廷からも統御されず、国家に利益があるならば、独断専行をすることも許されます。

だから速やかに高蕃を攻撃するべきです」

程昱がこの意見に賛同したので、李典らは北に向かって黄河を渡り、高蕃を攻撃します。

すると李典が言った通り、勝利することができました。

このように、李典には洞察力と決断力があり、軍事に関しても高い才能を持っていたのでした。

曹操はこれを知ると、李典を戦いにも積極的に用い始めます。

劉備の策を見抜き、夏侯惇の危機を救う

その後、けい州を支配する劉表が、劉備を用いて北方に侵入させてきました。

やがて劉備の軍勢は、しょうにまで侵攻してきます。

これを受け、曹操は李典に、夏侯惇に従って防衛するようにと命じました。

劉備は夏侯惇の軍と対峙すると、ある朝に、屯営を焼き払って立ち去りました。

すると夏侯惇が諸軍を率いて追撃しようとしたので、李典は反対の意見を述べます。

「敵が理由もなく引いたからには、伏兵があると思われます。

南へ向かう道は狭く、草木が深いので、追撃をかけてはいけません」

しかし夏侯惇はこの意見を聞き入れず、于禁うきんとともに劉備を追跡しました。

李典は陣営にとどまって留守を守っていましたが、はたして李典が予測した通り、夏侯惇たちは劉備がしかけた伏兵の中に入り込んでしまい、苦戦を強いられます。

このため、李典が救援に駆けつけると、その様子を見た劉備は、無理をせずに退却したので、夏候惇は危ういところを助けられました。

李典は戦場での駆け引きに通じており、優れた武将だったのだと言えます。

各地で戦功を立てて立身する

その後、李典は袁氏の拠点であるぎょうを包囲し、これを陥落させるのに貢献しました。

そして楽進とともに、関を守る高幹こうかんを包囲し、ついで長広を守る管承かんしょうを攻撃し、それらの戦いに勝利します。

この戦功によって捕虜将軍に昇進し、都亭とてい候の爵位を得ました。

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