勝海舟の墓は、東京都大田区、南千束の憩いの場である、洗足池のほとりにあります。
【広々とした水面をたたえる洗足池 周囲は静かな住宅街で、落ち着いた風情がある】
洗足池と勝海舟の関わり
海舟は1868年に、鳥羽・伏見の戦いで敗れた幕府軍の代表として、官軍の参謀である西郷隆盛と会見をすることになりました。
【1860年ごろの勝海舟】
官軍の本陣が池上本門寺に設置されていましたので、海舟はそこに向かいます。
そして途中で洗足池のそばを通りかかり、その自然の趣をいたく気に入りました。
交渉の行方次第では、江戸は火の海になるかもしれず、海舟は相当に緊張をしていたと思われます。
ゆえに、洗足池の穏やかな風景が心を和らげてくれたのでしょう。
結局のところ、海舟と西郷の和平交渉は無事にまとまり、江戸城は戦火を交えることなく官軍に明け渡されています。
その後も東北や北海道では戦いが続きましたが、それも官軍によって平定され、国内の動乱は鎮まっていきました。
すると海舟は洗足池の側に住みたいと思い、農学者の津田仙(津田塾大学の創始者・津田梅子の父)の仲介によって、洗足池そばの土地を得ます。
そしてそこに、洗足軒という別邸を建てました。
このことからわかるように、海舟はよほどに洗足池を気に入ったようです。
墓が洗足池の側に建てられる
その後、海舟は明治政府の海軍卿や枢密顧問官などを務めましたが、1899年に、77歳で亡くなりました。
生前より洗足池の近くに墓所を作っており、そのために海舟のお墓は現在の場所にあるのでした。
この写真に見られる通り、海舟と妻のたみの墓が並んで建てられています。
石塔に書かれた「海舟」の文字は、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜が記したものだと伝えられています。
幕末のころ、海舟と慶喜は不仲で、明治時代になってから20年間も交流がなかったのですが、海舟の方から関係改善の働きかけを行いました。
海舟は慶喜が明治天皇に面会し、公的な地位を取り戻すのに携わったり、慶喜の子に爵位を譲るなどしています。
石塔に「海舟」の文字を記したことから、海舟の思いが慶喜に届いていたことがわかります。
現在ではこのお墓は、大田区の史跡に指定されています。
別邸は焼失してしまった
海舟の別邸は戦災によって焼失してしまい、跡地は中学校になっています。
別邸があった場所には看板が設置され、海舟と洗足池の関わりについて、解説する文章が掲載されています。
【洗足軒の跡地 背後は中学校の敷地になっている】
西郷隆盛の留魂詩碑
海舟の墓のそばには、西郷隆盛の漢詩が刻まれた留魂詩碑もまた、設置されています。
江戸城の明け渡しに際し、海舟と西郷が交渉を行いましたが、これによって両者の仲が深まり、以後は親しく交流を持つようになりました。
海舟は会談の際の西郷の様子を、次のように語っています。
「おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失はず、談判の時にも、始終座を正して手を膝の上に載せ、少しも戦勝の威光でもつて、敗軍の将を軽蔑するといふやうな風が見えなかつた事だ」
このような西郷の重厚な物腰が、海舟をいたく感心させたのでした。
後に西郷は洗足軒を訪れ、海舟と日本の将来について歓談した、という逸話があります。
その後、西郷は征韓論をめぐる政争に敗れて鹿児島に戻りましたが、やがて弟子たちが政府に反抗し、西南戦争を引き起こしました。
西郷は弟子たちに担がれる形でそれに参加しましたが、1877年に敗北し、死去しています。
【非業の死を遂げた西郷隆盛】
これによって、最後は逆賊として世を終えたのですが、 海舟はその死を悼み、西郷の一回忌を記念し、自費で留魂詩碑を作りました。
当初は東京葛飾区の浄光寺に設置されていましたが、1913年に行われた荒川の開削工事に伴い、海舟のお墓の側に移設されています。
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