詩文の内容
この碑に記されている漢詩は、西郷隆盛が1864年に薩摩藩の国父・島津久光に罰せられ、沖永良部島に流罪になっていた時に作られたものです。
(読み下し文にしています)
洛陽の知己 皆鬼と為り
南嶼の俘囚 独り生を窃む
生死何ぞ疑わん 天の附与なるを
願わくば魂魄を留めて皇城を護らん
意味
京都の知人や友人は、みな鬼籍に入ってしまった
私は南海の島で俘囚となり、ひとりおめおめと生き延びている
生きるも死ぬも天の定めであることを、なんで疑うことがあろうか
願わくば、死んだ後にも魂魄を留め、天皇陛下のお城をお守りしたい
建立の意図
海舟がこの詩を選んだのは、西郷の直筆が残っていたことと、「死んだ後にも魂魄を留め、天皇陛下の城をお守りしたい」と書いた西郷の心根を人々に知らしめることで、逆賊の汚名を晴らそうとする意図があったためだと言われています。
また、「留魂」という詩碑の名前はここから取られています。
海舟はこの詩碑を建てた意図を、次のように記しています。
「慶応戊辰、明治元年の春、君(西郷)は大軍を率いて東海道を下った。
人心は動揺し、市民は荷物を担いで江戸から逃げ出すありさまだった。
私はこれを憂い、君の軍営に手紙を送った。
君はそれを受け入れ、命令を下して兵士たちのおごりを戒め、百万の市民を苦しめることがなかった。
何と心が広いのだろう、何という信義だろう。
私はたまたま、むかし君が書いた詩を読んだが、高く爽やかな気韻があり、筆跡には勢いがある。
君の普段の様子を見るかのようだった。
このため君を敬慕し、そうせずにはいられなくなり、この詩を石に刻み、記念碑を作った。
君は私のことをよく知っていたし、私以上に君のことを知っている者はいない。
地下にいる君が、もしこの記念碑の存在を知ることがあれば、ほおのヒゲをあげて、一笑することだろう」
「君は私のことをよく知っていたし、私以上に君のことを知っている者はいない」というくだりに、二人の深いつながりをうかがうことができます。
海舟が率先して、逆賊として扱われていた西郷の名誉回復を図ったのは、それが下地になっているのでしょう。
先ほど記した事情により、今は海舟の墓と西郷の留魂詩碑が、隣あって設置されています。
留魂祠
詩碑の側には「留魂祠」という小さな祠が設置されています。
こちらは1883年の西郷の七回忌に際し、海舟から詩碑の存在を知らされた有志たちが建立したものです。
もとは葛飾区の薬妙寺にありましたが、詩碑と同じく1913年に移設されました。
このようにして、西郷と縁のあった人たちの間で、追悼の動きが少しづつ広がっていったことがうかがえます。
洗足池へのアクセス
洗足池は、東急池上線の「洗足池駅」から歩いて2〜3分くらいですので、こちらから行くのが便利です。
海舟のお墓や、洗足軒の跡地は池の東側にあり、駅からですと向かって右手の方です。
池には野鳥の姿が見られ、桜の名所にもなっていますので、春に訪れるのが一番よいかもしれません。
【洗足池では野鳥の姿がよく見受けらる】