島津斉彬(なりあきら)は幕末に薩摩藩主となり、近代化の事業を推し進めた人物です。
優れた先見の明を備えており、西洋諸国のアジアへの侵攻に対し、技術の発展と諸国の連携によってこれを制するべきだという思想を抱いていました。
弟子とも言える西郷隆盛の思想に大きな影響を及ぼし、死後にも薩摩藩の活動にその存在は反映されています。
単に聡明なだけでなく度量も広く、家督争いを演じていた弟・久光とも友好な関係を築き、亀裂が生じていた家中の融和に努めました。
幕末を代表する名君であり、もしも斉彬がいなければ、西郷もあれほどの人物に成長することはなかったでしょう。
この文章では、そんな斉彬の生涯について書いてみます。
【島津斉彬の肖像写真。斉彬は写真撮影を趣味にしていた】
藩主の長男として生まれ、賢夫人と呼ばれた母に養育される
島津斉彬は1809年に薩摩藩主・島津斉興(なりおき)の長男として誕生しました。
斉彬の母・弥姫(いよひめ)は才女として知られ、薩摩藩の家臣たちからは「賢夫人」と呼ばれて尊敬を受けています。
弥姫は大名家の女性としては珍しく、子どもたちに乳母をつけずに自ら養育にあたり、「史記」や「四書五経」といった漢籍の内容を読み聞かせるなどして、優れた人物になるように育て上げました。
この影響によって斉彬のみならず、岡山の大名・池田家の養子となった弟の斉敏や、妹の候姫もまた名君・賢夫人として知られるようになります。
曽祖父の影響によって洋学に通じる
斉彬の曽祖父・島津重豪(しげひで)は蘭学(オランダ由来の洋学)を学ぶことを好み「蘭癖大名」と揶揄されることもあった人物でした。
重豪は開明的な性格を備えており、医学や天文学の学問所を作り、武士だけでなく百姓や町民にも学ぶ機会を与え、薩摩藩全体の教育水準の向上を図っています。
しかし一方で華美な生活を好み、学問所の経費もかさんだことから、藩の財政を悪化させてしまってもいました。
斉彬は幼いころからその聡明さを重豪に認められ、一緒に入浴することもあるなど、大変にかわいがられており、自然と西洋の学問にも通じるようになります。
重豪と一緒にドイツ出身の医師・シーボルトに面会し、西洋事情を尋ねる機会を持つこともありました。
このため、斉彬は子どもの頃から日本の国外にも、広く視野が行き届いた人物として成長していきます。
このことが、日本が西洋からの圧迫を受けて苦しんだ時代に、斉彬が活躍するための基盤になりました。
なかなか家督が譲られない状況が続く
重豪の晩年になると、いよいよ財政が急迫し、薩摩藩は再建に取り組まなければならない状態になりました。
重豪は調所広郷(ずしょ ひろさと)という財務に長じた家臣を取り立て、これを担当させます。
そして重豪の死後、孫の斉興(斉彬の父)が藩政の主導権を握ると、借金の期限の引き伸ばしや、砂糖の専売制などの政策によって財政状況が改善されていきました。
こういった経緯があったため、重豪が目をかけていた斉彬が藩主になると、再び浪費が始まって財政危機に陥るのではないかと警戒され、なかなか斉彬に家督が譲られない、という事態が発生します。
斉彬は他の大名たちと広く交際し、その聡明さを若いうちから他国にも知られる存在になっていましたが、こうした事情のため、40才を過ぎても跡継ぎという立場に据え置かれていました。
こうした状況が、斉彬の立場を脅かそうとする一派の暗躍を招きます。
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