島津斉彬 集成館事業を行い、西郷隆盛を育てた賢君の生涯について

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アヘン戦争の影響で植民地化を懸念する

斉彬が藩主になった頃には、日本の周辺にも異国船が盛んに出没するようになっており、薩摩藩の支配下にあった琉球(沖縄)にも、たびたび来航していました。

また、1840年から始まったアヘン戦争で、アジアの最強国家であった清がイギリスに敗れており、アジア圏にも軍事的な脅威が迫っていることが明らかになります。

斉彬はこうした国際情勢の変化を受け、このままではいずれ日本も西洋列強の植民地にされてしまうのでは、という危機感を強く抱くようになります。

このため、斉彬は藩主になると、富国強兵・殖産興業を掲げて藩政改革を断行しました。

集成館事業を開始する

斉彬は藩主となってからすぐに、近代工場群の建設に取りかかり、製鉄や造船といった、軍事力に直結する事業に重点を置いて、西洋技術の取り込みを進めて行きました。

これは「集成館事業」と呼ばれています。

最初は金属の精錬に必要な反射炉の建設が難航しますが、弱気になった担当者に対し「西洋人にできることが、同じ人間である日本人にできないはずがない。だからあきらめずに研究に励むがよい」と言葉をかけて激励し、これを実現させています。

この成功によって、国産の大砲や洋式船の建造が可能になり、薩摩藩の軍事力は飛躍的に増大していきました。

これ以外にも、紡績所の建設やガス灯の実験などにも取り組んでおり、産業の育成やインフラの整備も進めています。

この結果、集成館事業は1200人の雇用を生み出すに至っており、後に日本が近代化を果たす上でのモデルケースとしても機能しました。

国内初の蒸気船の建造に成功する

1853年には、斉彬や阿部正弘が危惧していた通り、アメリカの提督・ペリーが来航し、蒸気船の武力を背景に幕府に開国を迫る事件が発生します。

この国難に際し、阿部正弘は外様の大名から庶民まで、広く国防への意見を募り、国政への参加意識の興隆を図りました。

これを受けて斉彬は国政にも関わるようになり、海防力の強化のため、大型船の建造にも本格的に取り組むようになります。

幕府によって諸藩では大型船の建造が禁止されていましたが、斉彬は「琉球の防衛に必要である」という理由によってこの禁制の解除を要請し、幕府はこれを承認しました。

事実、ペリーは琉球を拠点として日本に来航しており、防衛が必要な状況になっていたのです。

これを受けて斉彬は西洋式の軍艦「昇平丸」を建造して幕府に献上しました。

さらにペリーの来航以前から研究をしていた蒸気機関の製造を試み、1855年には初の国産蒸気船「雲行丸」の建造に成功しています。

雲行丸の航行能力は低かったものの、日本人が独力で蒸気船を作り上げた点から、画期的な事業であったと評価されています。

また、当時の日本人たちに、「西洋の技術を自分たちのものにすることは、決して不可能ではない」と思わせた点において、その影響力は大きかったと思われます。

西郷隆盛を育成する

斉彬は家臣たちに自ら影響を及ぼすことで育成をしていく、という方針を取っており、元の身分に関わらず、有能な人材の発掘にも取り組んでいました。

ある時、西郷吉之助(隆盛)という家臣が農政に関する意見書を藩に提出し、これを読んだ斉彬は、西郷に強い興味を抱きます。

しかし西郷は身分が低かったため、容易に近侍させられなかったのですが、江戸藩邸のお庭役方という、庭の手入れをする係に任命したことで、西郷を直接教育できる状況を作り上げました。

この時に斉彬は西郷にあてた書簡を軒先に置き捨て、これを西郷が片付けるために拾う、という形式を取ることで、文書でのやり取りをはじめました。

こうして変則的な形で側仕えをさせるうちに、西郷には大きな才能が宿っていると認め、「薩摩の大宝である」とまで褒め称えるようになりました。

しかし同時に「西郷には独立の気性があるゆえに、使いこなせるのは自分だけだろう」とも評しています。

このあたりは、西郷の最期を暗示するような指摘だと言えます。

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