藤田東湖 尊皇攘夷を唱え、水戸藩を改革した思想家の生涯について

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藤田東湖は幕末において、西洋諸国の脅威をいち早く認識し、水戸藩の改革を行った思想家です。

先駆的に新しい情勢に対応するための活動を行っていたため、ペリーの来航後には、幕政にも参与するに至っています。

そして尊王攘夷を説く「回天詩史」などの著作が広く読まれたことで、水戸藩という領域を超え、維新の志士たちに強く影響を及ぼしました。

西郷隆盛や山内容堂にも慕われるなどしましたが、東湖は安政の大地震で死去してしまい、以後の情勢には関われなくなります。

しかし、その思想的な影響力によって、幕末の歴史に深く名を刻みました。

この文章では、そんな東湖の生涯について書いてみます。

【藤田東湖の肖像画】

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水戸藩の学者の子に生まれる

藤田家は、東湖の祖父の時代までは、水戸城下で古着屋を営む商家でした。

商家ではあるものの、学問を好む家風を備えており、東湖の父・幽谷は、子どもの頃からその学才を人々から認められ、神童と呼ばれていました。

幽谷はやがて成長すると、水戸藩が運営する、思想の研究所である彰考館の館員となり、水戸藩士に取り立てられるなど、学問によって立身出世を遂げています。

その後は水戸藩を代表する学者にまで成長し、他の藩士たちにも大きな影響を及ぼすほどの地位を得ました。

東湖はこの幽谷の次男として、1806年に誕生しています。

学問と剣術を学ぶ

東湖は次男であったものの、兄が早世したことから、藤田家で唯一の男子として育てられました。

名は彪(たけき)といい、「東湖」は生家の東に、湖があったことにちなんでつけられた号です。

東湖は父・幽谷から学問を仕込まれて育ち、13才の時には江戸に遊学しています。

そして撃剣館という道場に入門して、神道無念流という剣術の修行に励みました。

この神道無念流は、幕末に広まった人気のある流派で、同門で学んだ人物には、斎藤弥九郎や江川英龍、渡辺崋山などの著名な人物が多く含まれています。

こうした道場に入門していたことから、東湖の剣術は通り一遍のものではなく、本格的な修行を行っていたようです。

イギリス人への攘夷を父に命じられる

1824年、東湖が18才の時に、水戸の大津浜にイギリス人の捕鯨船員12名が上陸する事件が発生しました。

当時は日本は鎖国をしていた時代ですので、水戸藩も幕府も、イギリス人たちを船に戻して出港させ、うやむやにして済まそうとします。

しかし、幽谷は西洋の国々はアジアに対する領土的野心を持っているのではないかと警戒しており、イギリス人たちに厳しく対応するべきだと考えていました。

この時点で既に、武力をもって侵略者たちを打ち払う、いわゆる「攘夷」思想を有していたことになります。

幽谷は幕府と水戸藩が生ぬるい対応に終始したことを知ると、東湖に対し、上陸したイギリス人たちを襲撃し、殺害せよ、という過激な命令を出します。

剣術を身につけていた東湖は、父の意見に賛同し、イギリス人たちの殺害に一命をかけるつもりでいましたが、実行前にイギリス人たちが船に戻ってしまったため、これが果たされることはありませんでした。

もしも実行していたら、東湖は罪を問われて自害させられていたでしょうから、未遂に終わって幸いだったと言えます。

東湖の攘夷思想は父から受け継がれたものだった

こうして幽谷と東湖の計画は未遂に終わりましたが、この事件のあらましによって、父の代から既に、水戸藩では攘夷思想が存在していたことや、東湖が幕末に頻発する、外国人への襲撃事件を先駆的に実行しようとしていたことなどがうかがえます。

いわば東湖は、筋金入りの攘夷主義者だったのです。

これに、水戸藩が光圀公以来、研究を続けていた尊皇思想が合わさることで、「尊皇攘夷」という、幕末に特有の思想が誕生することになりました。

尊皇とは、日本の真の支配者は天皇である、とする思想で、尊皇攘夷は、「天皇を敬って日本をひとつに束ね、その力を持って日本を侵略せんとするものたちを打ち払おう」という思想です。

この原型が、ペリーが来航して大騒ぎになる30年ほど前から、水戸藩で醸成されていたのでした。

【次のページに続く▼】

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水戸藩 幕末 思想家
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