戸田忠太夫との逸話
ここで東湖と戸田忠太夫の間の逸話を、ひとつ紹介したいと思います。
東湖の同志である戸田忠太夫は、笙(しょう)という、雅楽で用いる吹奏楽器を吹くことを趣味にしていました。
そして江戸の水戸藩邸に小楼ができると、長かった蟄居処分も終わったことだし、気晴らしにそこに登って笙を吹いてみようと思い、東湖にそのことを話しました。
すると東湖は、笙は雅楽の楽器だから卑しいものではなく、小楼で吹くのもよいだろうが、楽器演奏はあくまで遊びである、と戸田忠太夫に言いました。
ペリーが来航して天下が乱れている時に笙を吹くと、逸楽にふけっていると批判する者が現れるかもしれず、まだ時期が早いだろうと、東湖は戸田忠太夫を諭します。
これを聞いた忠太夫は笙を吹こうとしたことを後悔し、心中でそんな気を動かしたというだけで、自分は東湖には及ばない、と知人の薩摩藩士に語っています。
このあたりに東湖の清冽さと、行き届いた配慮ができる神経の持ち主であったことを、うかがい知ることができます。
こうした人柄が、西郷たちを感化する上でも、作用したのだと思われます。
安政の大地震によって死去する
こうして東湖と戸田忠太夫は幕末の混乱期において、広く影響力を持つようになりますが、1855年に発生した安政の大地震によって、ともに死去してしまいます。
東湖は地震が発生した直後に、一度は藩邸から脱出したのですが、火鉢の火の始末が心配になった母が邸内に戻ると、後を追います。
しかしそうこうしているうちに、やがて天井から梁(はり)が落下してきてしまいました。
母を守るために東湖はこれを肩で受け止め、脱出するまでの時間を稼ぎます。
こうして母は脱出できたものの、東湖はそこで力尽き、梁の下敷きとなって圧死してしまいました。
享年は50でした。
戸田忠太夫もまた、この時に藩邸で死去しており、水戸藩は二人の優れた指導者を、一度に失うことになってしまいます。
安政の大獄によって斉昭が失脚する
一度に東湖と戸田忠太夫が死去したことで、その後の水戸藩は混乱にみまわれ、影響力を失って行きました。
斉昭も両者に支えられてこその名君であり、ひとりではさほど有益な活動を行うことはできませんでした。
幕政に介入するものの、大老となった井伊直弼の大きな反発を招き、「安政の大獄」と呼ばれた大弾圧によって引退させられてしまいます。
さらに東湖や戸田忠太夫の死後に、水戸藩で改革事業を継続していた安島帯刀(あじまたてわき。戸田忠太夫の弟)が無実の罪で切腹させられるなど、不当かつ厳しい処分を受けます。
桜田門外の変で井伊直弼を襲撃し、水戸藩はさらに衰退する
さらに水戸藩を改易するとまで脅されたため、これに反発した水戸藩士たちが井伊直弼を襲撃し、「桜田門外の変」で彼を討ち取りました。
この事件によって幕府の権威は大きく失墜し、やがて倒幕運動が発生することにつながっていきます。
これ以後の水戸藩は、尊王攘夷派と、保守派の内部抗争によって疲弊し、次々と有為な人材が失われ、幕末の情勢には、ほとんど関与できなくなってしまいました。
この流れの中で、東湖の四男である藤田小四郎は「天狗党の乱」という攘夷派の反乱に参加して敗北し、処刑されてしまっています。
他藩の人々に志は継承される
こうして東湖たちが不慮の死を遂げたことによって、水戸藩の行く末には、多大な悪影響が発生してしまいました。
西郷隆盛は東湖と戸田忠太夫の死を知って、「去る大地震は天下の大変で、水戸の両田も地震にあわれた。なんと言ってよいか言葉もなく、何も話す気にはなれません。私の気持ちを察してください」という手紙を同志に書き送っており、非常な衝撃を受けたことがうかがえます。
こうして東湖はあえなく死去してしまいましたが、その志は西郷隆盛を初めとする志士たちに引き継がれ、時代を揺り動かし続けることになります。
尊皇攘夷のその後
東湖が唱えた尊皇攘夷という思想は、幕末の日本を席巻し、多くの志士が一度はその思想に染まり、やがて西洋諸国との戦いを実践するに至ります。
しかし当時の西洋諸国は、日本とは隔絶した実力を備えており、幾度かの敗北によって攘夷が困難であることが悟られ、西洋の文物や技術を日本に取り込み、軍事・経済力を強化して独立を保てるようにしよう、という開国の方針へと変化していくことになります。
東湖たちが打ち立てた、水戸学の思想は置き捨てられることになるのですが、憂国の心を呼び覚まし、維新活動に多くの有為の人材を参加させるきっかけとして機能したことは確かで、その点においては、十分に評価されるべきだと思います。
また、攘夷は廃れたものの、尊皇思想は生き続け、やがて天皇を中心とした明治政府が立ち上がっていくことにつながります。
1890年になって、明治天皇が水戸に行幸した際に、尊皇を唱えて国事に尽くした志士たちに祭祀料を下賜しており、東湖と戸田忠太夫の遺族にも、これが贈られています。