藤田東湖 尊皇攘夷を唱え、水戸藩を改革した思想家の生涯について

スポンサーリンク

父の後を継いで水戸学の派閥争いを終わらせる

幽谷はイギリス人の上陸事件から2年後、1826年に死去し、東湖がその家督を継承します。

そして彰考館の総裁代役の地位につきますが、この頃には父が中心となっていた藤田派と、これに対抗する立原派の派閥争いが発生しており、東湖はこの問題の解消に努めました。

この派閥争いは、幽谷とその師である立原翠軒(すいけん)の間で発生したもので、歴史書である「大日本史」の編纂と、水戸藩の藩政改革の方針を巡って対立していました。

東湖は立原派との和解を進めてこれに成功し、やがて水戸学の大成者としての地位を得ることになります。

水戸学とは、大日本史の編纂事業を中心に行われていた、日本固有の思想や道徳を研究するための学問です。

水戸藩主の後継者問題で、斉昭派に属する

この頃にはもう一つ、水戸藩を二つに割る大きな問題が発生していました。

それは藩主の後継者問題で、当時の藩主である徳川斉脩(なりのぶ)が病弱で、子どもがいなかっため、その死に際し、藩内で係争が発生したのです。

斉脩の正室の弟で、11代将軍・家斉の子でもある恒之丞と、斉脩の実弟である敬三郎が、水戸藩主の地位を争うことになりました。

この時に東湖が属する改革派が敬三郎を推し、保守派が恒之丞を推すという状況になります。

最終的には改革派が勝利を収め、1829年に敬三郎が水戸藩主となり、名を徳川斉昭(なりあき)と改めています。

この結果、斉昭を推した東湖は登用を受け、藩政改革にも携わることになりました。

水戸の両田

この時に斉昭を擁立した勢力の中には、戸田忠太夫という、優れた見識や聡明さを備えた人物も含まれていました。

「藤田」と「戸田」と、どちらも姓に「田」の字が含まれていたことから、両者は「水戸の両田」と呼ばれ、改革派を代表する人物として、他藩にもその存在を知られるようになっていきます。

東湖と戸田忠太夫はそれぞれに斉昭に引き立てられ、水戸藩の要職に付き、藩政改革を主導しました。

戸田忠太夫は主に改革の実務を担い、東湖は教育や思想的な面で、藩士たちの意識変革に携わります。

水戸藩の改革

斉昭が藩主となった後、東湖は郡奉行という、行政官たちを束ねる要職についたのを皮切りに、江戸通事御用役などを勤め、1840年には側用人にもなり、斉昭と身近に接する立場につきました。

戸田忠太夫もまた側用人になり、さらに若年寄という、家老に次ぐ要職にもついています。

この時の改革は、海外からの脅威を認識した上で、それに対抗できる実力が備わるよう、水戸藩を強化していくのが目的でした。

具体的には特産品の専売や農村の復興によって、藩財政の立て直しを図ります。

また、藩校である弘道館を設立し、優れた人材の育成や登用を進めていきました。

これによって水戸学がさらに発展し、水戸藩は思想的に他藩を先導する立場を得ることになります。

また、ペリーの来航後には蒸気船の攻撃に備えるため、反射炉の建造を行い、西洋式の大砲を鋳造し、藩士たちに軍事訓練を施すなど、軍制改革にも着手しています。

東湖は斉昭の側近として、こうした諸改革に携わる一方で、水戸学の大家として、今後発生が予想される、国難に対応するための思想面の研究を進めていきました。

「弘道館記述義」にて、はじめて「尊皇攘夷」の語を用いる

東湖は改革のかたわらで、古事記や日本書紀を研究し、日本固有の道徳や秩序を表現するための著述活動を行っています。

また、藩校・弘道館の教育理念を示すための「弘道館記述義」という著作において、水戸学の思想を解説し、はじめて「尊皇攘夷」の語を用いています。

1842年にはアジアの大国である清が、イギリスとのアヘン戦争に敗れ、やがてこのことが日本にも伝わり、東湖が抱く国難への危機感は、さらに強まっていくことになります。

【次のページに続く▼】