藤田東湖 尊皇攘夷を唱え、水戸藩を改革した思想家の生涯について

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斉昭が失脚し、東湖たちも蟄居させられる

水戸藩の改革は順調に進んでいきましたが、1844年になると、保守派たちから反撃を受け、斉昭が幕府から隠居謹慎の処分を受けます。

この時に東湖と戸田忠太夫も免職され、改革派は大きな痛手を受けました。

東湖は江戸の小石川にあった藩邸に幽閉され、家禄も剥奪されてしまいます。

こうして東湖は苦しい立場に置かれましたが、この時期を著述活動にあて、「常陸帯」や「回天詩史」といった著作を執筆しています。

これらの著作の中で、東湖は尊皇攘夷の理念を述べるとともに、世界情勢の中で日本が置かれた危機的な状況への悲憤を表現し、読んだ人々の心を強く揺さぶりました。

これによって尊皇攘夷という思想が日本に広まってゆき、幕末の志士たちの活動に、大きな影響を及ぼすことになります。

ペリーの来航によって幕政に参画する

斉昭が隠居させられたものの、幕府の老中首座・阿部正弘は水戸藩の改革を支持しており、保守派を糾弾するとともに、東湖や戸田忠太夫の処分を解くべきであると主張しました。

すぐには蟄居が解かれなかったものの、幕閣が介入したことで、東湖らの立場は改善されていきました。

そして1852年には完全に処分が解かれ、自由の身になっています。

この翌年の1853年には、浦賀沖にアメリカの提督・ペリーが来航して幕府に開国を迫り、これによって斉昭と東湖、戸田忠太夫の立場が大きく変わることになります。

斉昭が西洋諸国の侵略に対応するための藩政改革を、先駆的に行ってきたことが評価され、幕府の海防参与という地位につき、東湖や戸田忠太夫は海岸防禦御用掛という役職を得て、幕政にも参画するようになりました。

そして1854年には側用人に復帰し、再び水戸藩を主導する立場についています。

ペリーの来航によって、東湖らが断行した改革の正しさが、証明されたことの結果であったと言えます。

こうして東湖らは、時代の先覚者として評価されるようになります。

多くの人材の訪問を受ける

こうして水戸藩を超えた領域で、外国勢力への対応という大きな仕事を担当するようになった東湖の元には、幕末を代表する様々な人物たちが訪れるようになりました。

西洋砲学に通じ、品川に台場を建造した江川英龍や、洋学研究の第一人者として活躍した佐久間象山、そして土佐藩主の山内容堂などがこれに含まれます。

中でも有名なのは、「維新の三傑」に数えられる西郷隆盛で、彼は東湖の人格に触れ、強く影響を受けたことを記しています。

西郷は低い身分の出でしたが、主君の島津斉彬によって取り立てられ、江戸に出て志士たちと交流し、その見識を深めている時期に東湖と出会ったのでした。

西郷隆盛との交流

西郷が東湖に会った時のことを「先生のお宅を伺った時には、まるで清水を浴びたような気持ちになり、心中から雲霞が晴れ、帰り道を忘れてしまうほどの心地になりました」と記しており、東湖に深く私淑していたことがうかがえます。

西郷は東湖に傾倒し、戸田忠太夫や原田八兵衛といった水戸の名士たちとも交流し、国士として自己を形成する過程において、大きな影響を受けています。

西郷が東湖を慕うあまり、主君の島津斉彬に対し、東湖から聞いた尊皇攘夷論を唱えましたが、斉彬は開国して日本を富国強兵し、諸外国に対抗すべきだという、東湖とは異なる思想を抱いていましたので、これをたしなめています。

東湖はまもなく世を去ることになるのですが、西郷たちに日本の将来を憂う気持ちと、その志は、継承されていきました。

西郷隆盛以外にも、海江田信義などの薩摩藩士たちも東湖や戸田忠太夫と知己になっており、この時期には、水戸藩と薩摩藩の間で盛んに人材の交流が行われています。

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