渋沢栄一の生涯 短縮版

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渋沢しぶさわ栄一えいいちは、幕末は徳川慶喜よしのぶの家臣として、明治初期は大蔵省の官僚として、明治6年以降は実業家として活躍した人物です。

この文章は、大河ドラマ『青天を衝け』の主人公である渋沢栄一の生涯を、短めにまとめて書いたものです。

渋沢栄一
【渋沢栄一】

出身地は武蔵国(埼玉県)

渋沢栄一は1840年に、武蔵むさし榛沢はんざわ郡・血洗島ちあらいじま村で誕生しました。
これは現在の埼玉県深谷市にあたります。

渋沢家は半農半商の家で、米や麦などの農耕を行ないつつ、染料の藍の製造や、養蚕なども手がけていました。

栄一の祖父の代には没落していたのですが、父・元助が分家から養子として入り、家を立て直しています。

栄一はその長男として生まれました。

十四才になるまで、儒教の経典である四書五経や歴史書などを学び、剣術の修行もしていました。

やがて父に学ぶだけの期間が終わったことを告げられ、家業の手伝いをするようになり、あいの原料の仕入れや、販売などに携わるようになります。

そして十七才になった時、地元の代官から理不尽な扱いを受けたことをきっかけに、農民の身分を脱し、武士になって国政を動かせるほどの存在になりたいと、志を立てるようになりました。

具体的には、代官から500両(数千万円)ほどの御用金を納めることを要求されたのですが、稼ぐための努力を何もしていない武士に、どうして大きな態度を取られてお金を巻き上げられなければならないのかと、栄一は腹を立てたのでした。

江戸時代には身分制度があり、高い身分の武士に家に生まれれば、無能な人間でもいばって暮らすことができ、農民や商人はどれだけ努力しても、その上に立つことはできませんでした。

ならば踏みにじられる立場の農民ではいたくないと、栄一は素直に考えたのでした。

幕末の動乱と挙兵計画

栄一が成人したころは、ペリーの来航によって鎖国が解かれ、時代が大きく変化しつつあった時期にあたっています。

このため、栄一もその影響を受け、家業を離れることを決意しました。

まず、父に頼んで江戸に出て、海保かいほ漁村ぎょそんという儒学者の元で学問を学びます。
そしてお玉ヶ池にあった北辰一刀流の道場に入門し、そこで多くの若者たちと知り合いました。

その交流の中で影響を受け、尊皇攘夷の思想を抱くようになります。

これは特殊な出来事ではなく、当時の若者たちはみな同じ思想を抱いていました。

そして栄一は親類や仲間たちとともに挙兵し、高崎城を奪取し、さらに兵を集めて横浜の外国人居留地を焼き討ちしようと計画します。

実際に武器を買い求め、それを倉庫に隠し持つなどして、具体的に準備が進行していきました。

仲間も七十名ほど集まります。

しかし帰郷した従兄弟の尾高長七郎に計画への賛同を求めると、懸命な説得を受け、これを断念することになりました。

尾高長七郎もまた志士活動を行っており、直前まで京都に滞在していました。

そして西日本の各地において、名のある志士たちが挙兵したものの、あえなく鎮圧されて無残な最期を遂げたことを知っており、このために無謀な挙兵を阻止したのでした。

一橋家に仕官する

こうして挙兵はあきらめたものの、数十人もの人数が怪しい動きをしていたので、幕吏に察知されてしまいます。

このため、栄一は従兄弟の渋沢喜七きしちとともに江戸に出て、知遇を得ていた一橋家の用人・平岡円四郎を訪ねることにしました。

さしあたって、当時の政治の中心地となっていた京都に向かおうとしたのですが、浪人の身分で旅をすると、既に幕府に目をつけられている以上、危険かもしれないので、一橋家の家来だということにしてもらおうとしたのです。

平岡は京都にいて不在だったのですが、夫人に言いおいてくれていたので、家来の名のりを得て、無事に京都に到着することができました。

そして平岡をたずねると、正式に一橋家の家来になることを勧められ、先のあてもなかった栄一と喜七は、これを受け入れて仕官します。

【次のページに続く▼】