身分が高まり、募兵において優れた働きを見せる
はじめは低い身分から勤めはじめましたが、職務に忠実に取り組んだので、だんだんと信頼されるようになり、ついには御目見得の身分にまで登りました。
これは当主である一橋慶喜との面会が許されたということであり、ひとかどの武士の身分を得たことになります。
一橋家は通常の大名家とは違い、家臣の多くは他家から出向していた人員で構成されていました。
重役である平岡円四郎にしても、本来の身分は幕臣です。
このため、新参の栄一たちでも、短期間で身分を引き立てられやすいだけの、風通しのよさがあったのでした。
一橋慶喜は当時、御所と摂津(大阪)の沿岸防衛を担う立場だったのですが、一橋家は自前の兵団を持っておらず、役目に対して必要な実質を備えていませんでした。
このため、栄一は一橋家の領地から兵を集めることを提案し、その実施を担当します。
領地では代官が怠業してこれを妨害したのですが、栄一は住民や庄屋と直接交流を持ち、代官が妨害していることを突き止めます。
そして代官に、募兵が不首尾に終わった場合、代官の立場がただではすまないことになると示唆し、妨害をやめさせ、数百人の兵を集めることに成功しました。
一橋家の財政状況を改善する
また、栄一は一橋家の領地を見て回るうちに、工夫をすれば財政状況を改善できると考え、それも提案しました。
具体的には、年貢として集めた米の販売先を変更することで、買取値を高めて収入を増やしたり、それぞれの商家がばらばらに販売していた木綿を藩でまとめて取り扱い、よりよい販路を開拓し、販売価格を高め、収益を増やすといった内容でした。
そして藩札を発行し、取引が円滑に行われる仕組みも提案します。
栄一はこの仕事も任され、成功を収め、大きな実績を上げました。
このように、栄一には企画力と実行力がともに備わっており、このころから既に、実業家に適した資質を見せていたのでした。
陸軍の所属となり、留学の付き添いを打診される
やがて、1866年に十四代将軍の徳川家茂が病死すると、慶喜は十五代将軍に就任しました。
これにともない、一橋家の家臣たちも幕臣になったのですが、栄一はこの時、幕府の陸軍に転任することになります。
しかし栄一は軍事には向いていませんでしたので、辞職しようかと考えていたところ、徳川昭武の海外留学の付き添いをしないかと打診を受けました。
徳川昭武は慶喜の弟で、パリで開かれる万国博覧会に日本の代表として出席した後、現地にとどまって留学をすることになっていました。
昭武は水戸藩の若様だったので、水戸藩士たちがお付きとして随行するのですが、水戸藩士は尊皇攘夷の思想を抱いている者が多く、海外に行っても現地の風習になじめず、昭武を十分に支えられないのではないかと、慶喜は懸念していました。
このため、より柔軟で、才覚もある栄一を付き添いに加えようとしたのです。
またそれは、栄一の将来のためにもなるだろうとも慶喜は考えたのでした。
この時代、海外に留学できるのはごく限られた人だけでしたので、栄一はこの話を聞いて、喜んで引き受けます。
留学時代
昭武の一行は、パリに到着するとフランスの皇帝であるナポレオン3世に謁見するなどして、海外の外交儀礼に触れることになります。
当時、日本と欧州の文明・技術の水準には隔絶したものがありましたので、栄一たちはその違いに驚かされつつ、劇場や美術館などの文化施設や、水道などのインフラ施設、工場などを見学し、見聞を広めました。
この時の経験が、後に栄一を商業だけでなく、文化事業や教育など、様々な分野に関わらせることにつながっていきます。
やがて万博が終わると、昭武は教師について学問を始め、栄一も他の随行員たちと一緒に教師を雇い、語学などを学び始めます。
栄一はこの他にも、留学生や随行員たちの使う予算の管理を任されており、余剰資金で公債を買って利殖を行うなどして、無駄なく活用する才覚を見せています。
そして昭武の生活面から教育面まで、懇切に世話をしたので、昭武から深く信頼されるようになりました。
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