予算案の問題で辞任する
このころはまだ、国家予算を立てるための仕組みが確立されておらず、各省庁が必要に応じて、そのたびごとに大蔵省に予算を要求し、それを認めるか認めないかで折衝が行われていました。
歳入の確定もおぼつかない状況にあったので、自然と大蔵省からの返答は渋いものになりがちでしたが、このために他の省庁からの、大蔵省に対する反発が高まっていきました。
これに加え、大蔵卿の地位にあった大久保利通は、財務に関する見識が乏しく、国家にとって必要ならどんどん出してしまえ、という構えの人でしたので、栄一と、上司の井上馨は悩まされます。
井上馨は長州出身で、幕末では高杉晋作について倒幕活動を行っていた人物です。
この時期は大蔵大輔として、栄一の一つ上の地位にあり、協力して仕事にあたっていました。
やがて予算をめぐる折衝において、栄一と井上は、大久保利通や、頼みとしていた大隈重信とも対立する状況になってしまいます。
このため、井上は辞任することを決意しました。
すると栄一もまた、井上とともに辞任すると宣言し、両者はそろって大蔵省を後にします。
実業家として活動を開始する
もとより栄一は、民間に身をおいて、日本の産業育成に貢献したいという志を抱いていました。
当時の商人の社会的な立場は低いもので、高度な教育を受けておらず、役人に対して卑屈な態度を取る者が多く、これでは日本の産業界は発展しないのではないかと、栄一は懸念していました。
このような状況になったのは、江戸時代に商人の社会的な立場が低かったことに起因しています。
官ばかりに人材が集まり、民に人材が集まらなければ、いつまでも日本は豊かにならないし、財力もつかないと、栄一は考えました。
栄一は民間に身を置き、商業に携わる者の教育水準を高め、社会的な地位を向上させようとして、事業に携わるだけでなく、商業学校を創設し、人材の育成にも力を入れました。
これは「商法講習所」といい、一橋大学の前身になっています。
そしてここの出身者から、日本銀行の総裁になった人が輩出されました。
また、女子教育の必要も認識しており、日本女子大学の創立にも関わっています。
国立銀行を創設し、多用な事業に関わる
栄一は大蔵省を辞任した後、自らが制度設計に関わった第一国立銀行の頭取となり、日本各地に地方銀行が設立されるように尽力しました。
これが後の第一勧業銀行で、現在はみずほ銀行となっています。
そして金融に限らず、戦前の日本の主力産業だった繊維・紡績業の確立にも尽力しました。
それ以外にも、製紙業の創設にも関わっているのですが、直接の理由は、当時は質の高い紙がなかったので、偽札が作られやすく、これを防止するためでした。
この時に設立された会社が、後に王子製紙となっています。
この他にもセメント業、製糖業、鉄道、証券取引所、ビール製造、海上保険、海運など、全部で500社もの企業の設立に関わりました。
これらの企業には、現代にも残っている大企業が数多く含まれています。
日本で設立可能で、かつ日本に必要な近代的な事業の創設には、ほぼすべて関わっていると言っても過言ではありません。
また、帝国ホテルや劇場の創設にも関わっており、外国から要人が訪れた際に、日本で初めて歓迎のイベントを催して感謝されるなど、対外的な活動にも意を砕いています。
これはおそらく、フランスへの留学に随行した際の経験が生きたのでしょう。
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