渋沢栄一の生涯 短縮版

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共存共栄を目指した

このようにして、栄一が多数の事業に関わることになった理由として、私利私欲にとらわれず、共存共栄を目指したということがあります。

栄一は渋沢財閥を作ろうとはせず、同じ事業を複数の人が行ない、日本中で産業が盛んになることを目指しました。

なので相談を受ければ、自分が役員になっている企業が行っている事業を、他の人がやりたいと言っているのを支援したりもしました。

このために批判されたこともありましたが、栄一は利益を独占するようなふるまいを嫌ったのでした。

このため、三菱の元に利益を集めていこうとする岩崎弥太郎と、海運業において対立したこともあります。

社会事業にも携わる

その他には、日本赤十字社や東京慈恵会の設立に関与し、関東大震災が起きた後には復興のための寄付金集めに尽力するなど、医療・慈善事業にも積極的に関わっています。

また、日印協会や日仏会館を設立したり、日本国際児童親善会を設立するなどし、国際交流事業にも力を入れました。

その影響で、栄一はノーベル平和賞の候補にもなっています。

政治とは距離を置く

このように、栄一は様々な活動によって名声を得ていましたが、実業家として活動し始めてからは、政界と距離を置いています。

1901年に、かつての上司だった井上馨が組閣を命じられました。

すると井上は、一番初めに栄一の元を訪れ、大蔵大臣への就任を要請しました。

しかし栄一がこれを断ったので、井上は組閣を断念し、かわって桂太郎が首相になっています。

その他にも、伊藤博文が立憲政友会を立ち上げた際に入党を求められたのですが、こちらも断っています。

栄一は、いったん民間の実業家として活動すると決めた以上は、政治には深く関わらないと決めており、地位を求めて志を変えることはありませんでした。

(地方自治体の議員には就任したことがあり、いっさい関わりを持たなかった、というわけではありません)

70才で活動を絞る

やがて70才になった栄一は、役員を務めていた61社から身を引き、銀行業と社会公共事業にのみ携わるようになります。

隠居しようとしたわけではなく、その年のうちに実業界の有力者31名の団長となり、アメリカに渡って53都市を訪れて民間交流を行い、精力的に活動を続けました。

また、1912年に明治天皇が亡くなると、神宮と外苑を造営するための委員会を組織し、その意見を総理大臣や宮内庁に提出しています。

これが元になって、代々木に明治神宮が作られ、外苑も整備されました。

慶喜の名誉回復に尽力する

栄一は大蔵省を辞任して実業家となった後、静岡を通る際には、必ず徳川慶喜に会いに行っています。

そして伊藤博文など、政界の要人たちに慶喜の罪が許されるようにと働きかけ続けました。

慶喜が政権を朝廷に返還し、速やかに降伏したのは国家のためを思っての行ないだったと伝え続け、このかいもあって1902年に慶喜は公爵の位を授けられ、名誉の回復がなされます。

栄一はそれに続き、慶喜側からの視点に基づく史書の編纂を行ない、多くの人々の協力を得て、1917年に『徳川慶喜公伝』を完成させました。

このように、栄一はかつての主君に対しても忠節を尽くす、義理固い人だったのです。

92才で亡くなる

栄一は1931年(昭和6年)に、92才で亡くなりました。

幕末から明治、大正、昭和を股にかけて生き、新時代の創設と、日本の経済発展に尽くした生涯だったと言えます。

栄一は単なる実業家ではなく、社会に貢献しようとする意識が強く、このために器の大きな人物になったのでした。

商業は道徳を重視して行うべきだとも説いており、ただの利益至上主義者にはならないように、人々に語りかけてもいました。

そのあたりは『論語と算盤そろばん』という書物にまとまっています。