渋沢栄一の生涯 短縮版

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幕府が滅亡する

そうして2年ほどが経過するうちに、日本では大きな政変が発生しました。

慶喜は1868年に大政奉還を行ない、幕府から朝廷へと権力が返還されます。

そして薩長は徳川家を朝敵として戊辰戦争を起こし、やがて慶喜が降伏を申し入れ、江戸幕府は完全に滅亡しました。

その後、栄一の従兄弟である喜七は彰義しょうぎ隊を結成し、上野に陣を構えて新政府に抵抗する姿勢を見せます。

やがて彰義隊で内紛が起こり、喜七は離脱しますが、同じく従兄弟の尾高惇忠あつただとともに振武しんぶ隊を結成します。

そして新政府軍と戦いますが、敗北しました。

喜七はそのまま東北、五稜郭と転戦して抵抗を続け、惇忠は地元に帰りましたが、このようなわけで、栄一の身内や仲間たちは戊辰戦争に参加しており、中には戦死した者もいました。

留学を継続できるように手配する

このような状況になりましたが、栄一は昭武の学問が成るまで留学を継続した方がよいだろうと考え、財政上の措置を取ります。

まず、引っ越しをして家賃を減らし、随行員を何人か日本に送り返し、経費を削減しました。

また、いざという時には父親に援助してもらおうと思い、日本に連絡を取っておきます。

こうして数年は留学を継続できる状況を作ったのですが、やがて水戸藩の藩主が死亡したので、昭武はその後を継ぐために帰国することになります。

このために栄一も帰国しますが、それに際し、資金をかき集め、幕府がフランス政府に対して負っていた負債を返済しています。

これは栄一の責任のあることではなかったのですが、栄一がお金の面に関して、非常にきっちりとした人であったことが表されています。

静岡に赴く

帰国した後、栄一は昭武に兄・慶喜への手紙を託され、静岡に向かいます。

徳川家は幕府が滅亡した後、静岡七十万石の一大名になっていました。

別れに際し、昭武は手紙を渡したら、返事を持って水戸に来てほしいと栄一に声をかけました。

そして自分の補佐をしてほしいとも希望を述べます。

栄一は静岡に到着し、昭武から預かった手紙を差し出しますが、なかなか返事がもらえなかった上、突然、静岡藩の役人に任命されてしまいました。

そして返事は静岡藩から送るので、水戸には行かなくてもよいと言われます。

栄一はこの一方的な、情に欠けた措置に怒り、苦情を申し入れると、静岡藩の中老である大久保一翁いちおうから説明を受けます。

慶喜は、昭武が栄一を欲しがっていることを知りましたが、水戸藩には歴代に渡って仕えている重臣たちがおり、そこによそ者で、新参の栄一が入ったところで、よくは思われず、十分に働くことはできないだろう、と懸念します。

しかし水戸に行ってしまえば情もわき、なかなか離れがたくなってしまうかもしれないので、栄一を水戸には行かせないほうがいいと、配慮してくれていたのでした。

先に昭武の随行員に選んだ時のことといい、慶喜はよく人事に気の回る人だったことがうかがえます。

これを大久保から聞くと、栄一は怒りを鎮めましたが、困窮している静岡藩からろくをもらおうとは考えていなかったので、藩に籍は置きつつも、役人になることは辞退し、しばらく静岡にとどまることにします。

静岡に商会を設立する

ちょうどこの時、新政府は各地の大名家に太政官札だじょうかんさつを発給していました。

新政府は成立したばかりで予算がなかったので、太政官札という紙幣を発行してこれを補おうとしたのですが、信用がないので、なかなか民間では使用されませんでした。

なので各地の藩に、1万石ごとに1万両を貸与し、利息を取り立てて収入にするとともに、太政官札を普及させようともしたのでした。

これを知った栄一は静岡藩に申し入れ、この札は藩の予算として使用するのではなく、商会の設立資金にして利益を得たほうがいいと提案します。

そして提案書を提出すると、これが承認され、栄一の仕切りで商会が設立されました。

栄一は、太政官札は信用がないので、すぐに価値が下落するだろうと考え、その前に米や肥料などの買い付けに使用し、物産に変換してしまいました。

それを元手にして、地元の商人たちに商会に参加するように促して人手を得て、大いに商業を興しにかかります。

この活動が実り、三十万両の資金を用い、一年で八万両という大きな利益を上げることに成功しました。

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