お由羅と久光
斉彬には久光という異母弟がいました。
久光は父・斉興の側室であるお由羅(ゆら)の子どもです。
このお由羅が斉彬を廃嫡させ、我が子の久光を島津氏の藩主にしたいという野心を抱き、自身の派閥を形成して、薩摩藩を2つに割る騒動を引き起こします。
斉彬の母・弥姫が若くして亡くなっていたことでお由羅の権勢が強まり、こうした事態を招くことになりました。
先に述べたように、父・斉興もまた斉彬が、重豪のように藩財政を危機に陥れるのではないかと危惧しており、これもお由羅の暗躍を助長させる原因になっています。
薩摩藩士たちの中には、英明な斉彬こそが薩摩藩主になるべきだ、と考える者たちが多く、やがてお由羅や久光を殺害して憂いを断つべきだという、非常手段を用いようと考える者たちも現れました。
お由羅騒動
しかしこの動きはお由羅側に察知され、首謀者13名が切腹させられてしまいます。
さらに50名ほどが遠島や謹慎などの処分を受けており、斉彬を擁立する勢力が弱体化しました。
この事件は「お由羅騒動」と呼ばれています。
この事態を受け、斉彬を擁立する藩士たちは藩外に脱出し、福岡藩主の黒田斉溥(なりひろ)に支援を求めます。
斉溥は島津氏一族の出身で、重豪の13男でした。
養子として黒田家を継いでおり、彼もまた重豪の影響を受け、蘭学に通じる開明的な人物として成長しています。
このために斉彬に好意的であり、黒田斉溥は幕府や諸藩の実力者たちに、斉彬擁立の働きかけを行いました。
そして黒田斉溥から支援を求められた幕閣の阿部正弘や、福井藩主の松平慶永(よしなが)といった実力者たちが、斉彬を藩主に据えるようにと薩摩藩に要請します。
阿部正弘の働きかけによって薩摩藩主となる
阿部正弘は首相格とも言える幕政の中心人物で、強い影響力を備えていました。
そして斉彬の才能を高く評価していたことから、自らこの問題の解決に乗り出しています。
阿部正弘は江戸の藩邸に詰めている薩摩藩の家老を呼び出し、家督争いは幕府の知るところになっており、この問題を早急に収拾しなければ、いずれ幕府から何らかの処罰を下すことになる、といったことを暗示しました。
そして斉興のこれまでの藩主としての功績を祝う、という名目で赤い衣服を贈り、引退するべきだと示唆します。
この結果、斉興は引退を決断し、ようやく斉彬が薩摩藩主の地位につくことができました。
これは1851年、斉彬が42才の時のことでした。
阿部正弘はこの頃からすでに、西洋外国が日本を圧迫し始めるであろうことを予測しており、これに備えるために斉彬が島津氏の当主になるべきである、という考えも抱いていました。
そして斉彬は、この期待に応えて活躍を見せていきます。
藩内の融和に努める
斉彬は家督争いによって亀裂が走ってしまった藩内の秩序を取り戻すため、融和的な政策を実施しています。
藩政の方針において反対の立場をとっている父・斉興を相談役として残し、父の派閥の重役たちもそのままの地位にとどめています。
そして競争相手であった久光にも友好的に接し、関係を改善することに成功しました。
斉彬は自分と意見が合わないものであっても排除せず、共存の道を探る努力を怠らない、度量の広い人物であったと言えます。
その一方で追放されていた自派の者たちを呼び戻し、藩政改革を行うための体制を整えていきました。
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