島津斉彬 集成館事業を行い、西郷隆盛を育てた賢君の生涯について

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忠義が後継者となる

斉彬の遺言によって、その死後には弟・久光の子である忠義が斉彬の養子となり、薩摩藩主の地位を継ぎました。

斉彬の子はいずれも夭折しており、このために弟の子を養子に迎えたのです。

斉彬の子どもたちが幼くして亡くなったのは、これも暗殺であったという説があり、お由羅一派との争いは、斉彬が融和を図ったにも関わらず、完全には解決していなかったことがうかがえます。

それでも久光の子を養子にする措置を取ったのは、自身の身や子どもたちが危険にさらされても、なお薩摩藩の団結を優先した斉彬の意志が反映されているのだと思われます。

こうした斉彬の措置によって、薩摩藩は分裂することなく幕末の動乱期を迎え、その実力をもって明治維新を主導する立場につくことになります。

死後も賞賛を受ける

斉彬は生前から高い評価を受けていた人物でしたが、死後にも賞賛を受けています。

その死から4年後、1862年に朝廷から「照国大明神」という神号を贈られており、今も鹿児島県の照国神社で祀られています。

斉彬は松平慶永や山内容堂、伊達宗城と並んで「幕末の四賢侯」と称されましたが、松平慶永は後に「大名では一番のお方であり、自分も他の大名たちも及ばない」と語っています。

西郷は斉彬の死去を知って号泣し、殉死しようとするほどに落胆しました。

しかしその後立ち直り、明治維新の立役者として活躍することになります。

また、後継者争いでは敵対関係に置かれていた久光も、やがて斉彬と親しむようになっており、後に斉彬がやろうとした、藩兵を率いて幕府に意見を述べ、公武合体の促進を試みる、という活動を実施しています。

その先見性、実行力、そして人々への影響力を合わせて、まことに傑出した人物であったと言えるでしょう。

照国とは、「国を照らす」という意味なのでしょうが、混迷していた幕末において、富国強兵・殖産興業という手段によって日本が進むべき道をいち早く示したことで、当時の人々から偉大な先駆者とみなされたのだと思われます。