漢中太守となる
こうして諸葛亮と魏延が失われ、蜀では体制の再編が行われました。
諸葛亮の後は蒋琬が継ぐことになります。
そして王平は後典軍・安漢将軍に昇進し、車騎将軍である呉壱の副将となって、漢中に駐屯しました。
そして漢中太守を兼任しましたが、これは以前、魏延が務めていた地位であり、北方の主力を担う立場を得たことになります。
237年には安漢候に爵位が上がり、呉壱にかわって漢中の総指揮官となりました。
漢中は蜀と魏の国境地帯にある重要拠点でしたので、王平の能力が高く評価されていたことがうかがえます。

さらに地位が高まる
238年には、大将軍の蒋琬が沔陽に駐屯したのですが、王平はその際に前護軍となり、蒋琬の幕府の事務を取り仕切ります。
王平は戦陣の中で育ったので、十文字くらいしか文字を知りませんでした。
このため、文書は口述したものを筆記させたのですが、すべて筋が通っており、誤ることがありませんでした。
知識はなかったものの、頭の働きが優れていたようで、このために事務の仕事をこなすことができたのでした。
こうして多才なところを見せた王平は、243年に蒋琬が涪に移動したのにともなって、前監軍・鎮北将軍に昇進し、再び漢中の指揮をとっています。
曹爽の攻撃に対処する
244年になると、魏の大将軍である曹爽が、歩兵・騎兵を合わせて十数万を率いて漢中に攻めこんできました。
漢中の守備兵は、蒋琬が移動していたために3万程度でしかなく、諸将はあわてふためきます。
そんな中で、ある者が述べました。
「現在の兵力で敵を防ぐのは困難です。
敵が進むのに任せ、漢と楽の二城を固守するべきだと思います。
たとえ賊軍が侵入しても、涪の本隊が関城を救援できるでしょう」
これに対し、王平は反対します。
「それは違う。
漢中は涪から千里(約400km)近く離れているから、もしも賊軍が関城を手に入れれば、災いの種となるだろう。
今はまず、劉敏と杜祺を興勢山にたてこもらせ、私がその後方の備えになるのがいいだろう。
もし賊軍が部隊を分けて黄金谷に向かってくるのなら、私が千人を率いて自らこれに対応しよう。
そうしている間に、涪の本体が到着するだろう。
これこそが上計である」
これに対し、劉敏だけが王平の意見に賛成しました。
すると王平と劉敏はすぐに行動に移り、興勢において、百余里に渡って旗や幟をたくさん立て、大軍が防衛しているように見せかけました。
これによって、王平たちは魏軍の進軍を妨げることに成功します。
すると涪の諸軍と、大将軍の費禕が成都からあいついで到着し、魏軍を引き上げさせるのに成功します。
このようにして戦況は、王平が立てた計画の通りに進みました。
このころ、鄧芝が東方に駐屯し、馬忠が南方に、王平が北の国境に在任し、いずれも優れた功績をあげています。
やがて亡くなる
先に触れたとおり、王平は字がほとんど書けませんでしたが、人に『史記』や『漢書』の本紀・列伝を読ませてそれを聞き、全体的な話の流れは知っていました。
時々この二書について論じましたが、その意見は本質をとらえたものだったといいます。
王平は法律や規則を遵守する性格で、冗談は一切口にしない、生真面目な人物でした。
朝から晩まで、一日中きちんとした格好で座り、まるで武将であるようには見えなかったようです。
しかしながら性質が偏狭で、疑い深いところがあり、軽はずみなところが欠点でした。
248年に亡くなり、子の王訓が後を継いでいます。
後に蜀では、張翼や廖化が大将軍になりますが、その時に人々は「前に王平・句扶あり、後に張翼・廖化あり」と言って並び称しました。
王平は蜀において、代表的な将軍のひとりにまで立身していたのでした。
ちなみに、句扶は忠義と武勇を備え、王平に次ぐ地位にあった武将で、左将軍にまで登った人物です。
王平評
三国志の著者・陳寿は「王平は忠誠心が高く、武勇に優れ、厳しい生活態度を示した。
己の長所を発揮し、名声を得て出世したのは、必要とされる時代に巡り会ったためである」と評しています。
王平は蜀という国を支えた、優れた人物の一人だったのだと言えます。
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