張裕が不吉な予言をし、密告される
一方で張裕は予言を外したのですが、その上、次のような予言を密かにしていました。
「庚子の年(220年)に天下は代替わりし、劉氏の帝位は終わりとなる。
そして主君(劉備)が益州を手に入れてから九〜十年のうち(223〜224年)に、これを失われるだろう」
するとこれを聞いたものが、見過ごせないと思ったようで、劉備に密告をします。
過去に劉備に不遜な発言をしていた
張裕は劉璋にも仕えており、かつて劉備が初めて益州にやって来た際の、涪における会談にも同席していました。
その席で劉備は、張裕が豊かな髭を生やしていることについて冗談を言うと、すぐに張裕は劉備に言い返し、劉備に髭がないことを揶揄する発言をします。
張裕は負けず嫌いな性格だったのでしょう。
劉備はこの張裕の不遜な態度を根にもっており、それに加えての失言でしたので、ますます腹を立てました。
このため、漢中攻撃の際に、張裕の意見が的中しなかったことを問題にし、投獄して処刑しようとします。
諸葛亮が減刑を進言するも、処刑される
これは過剰な刑罰だと思われたようで、諸葛亮が上表し、減刑を要請しました。
しかし劉備は「かぐわしい蘭でも、門に生えたならば刈り取らぬわけにはいくまい」と述べ、耳を貸しませんでした。
こうして張裕は市場で死刑に処せられます。
劉備の対応は厳しいものでしたが、「劉氏の王朝が終わり、劉備も地位を失う」というこの上なく不吉な発言を、見逃すわけにはいかないという理由もあったでしょう。
後に曹丕が劉氏から位を奪って魏の皇帝となり、その2年後に劉備が薨去しましたが、これらは張裕が予言した時期に発生し、死後に的中したことが証明されました。
張裕は自分の死を予測していた
張裕は人相見にも通じており、鏡で自分の顔を見て、いずれ刑死することを予測していました。
このため、鏡を見るたびに地面にたたきつけていた、といいます。
張裕は予言が原因で処刑されましたが、いずれそうなることを自分で予測し、実現させてしまったのでした。
このような結果を見るに、未来を予測する術は、用いる当人を幸福にするものではないようです。
不幸な未来を予言し的中させると、むしろ恨みを買うことが多く、うかつに口外するのは危険な行為なのだと言えます。
周羣は予言するだけでなく、悪い結果を防ぐために慎重さと警戒を促す知恵があったので生き延び、張裕はそのような配慮を欠いていたために、処刑されてしまったのでした。
周羣評
三国志の著者・陳寿は「周羣は天文を観て占い、正しい判断を下した。純粋な学者だった」と評しています。
周羣は劉備が帝位につく前に亡くなりましたが、子の周巨がその技術を受け継ぎました。
そして周巨は後漢が滅亡した後、劉備に帝位につくことを勧める上表文を作成しています。
「臣の父・周羣が存命の頃、西南に黄色の霊気が立ち昇るのを見るなど、特別な瑞祥を発見していました。
これらは『その方角から天子が現れる』ことを意味していましたが、その時はまだ許に帝(献帝)がおわしましたので、あえてはっきりとは申し上げなかったのです」
といったことを記しており、周羣が生前に劉備が帝位につくと予測していたことを明らかにし、即位を促すことに一役買っています。
周羣は瑞祥を発見した時点ですぐに発表すると、献帝に対する不遜な発言となるため、時期が来るまで隠しておいたのでした。
このことからも、周羣の賢明さがうかがい知れます。
