劉備玄徳 関羽や張飛とともに漢の復興を目指した、三国志の英傑

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曹操が徐州の住民を虐殺する

一方、父親を徐州の賊に殺害され、復讐に燃える曹操は、陶謙が支配する城をいくつか陥落させます。

そして通過した地域では、多くの民を虐殺しており、これが曹操の経歴にとって、大きな汚点となりました。

悪いのは徐州の賊であって、民ではないのに、それを殺害したのは、言い逃れのできない悪事だったからです。

劉備はこれを食い止めようとして戦いを挑みますが、曹操に敗北して撤退しています。

これが劉備と曹操の初対戦でしたが、以後も劉備はしばらく、曹操に敗れ続けることになりました。

豫州刺史となり、陶謙から徐州を統治することを求められる

陶謙は上表をして劉備を刺史ししに任命し、小沛に駐屯させます。

これによってついに、劉備は一州を統治するほどの地位を得たのでした。

やがて陶謙は病気が重くなったので、別駕べつが(側近筆頭)の糜竺びじくに「劉備でなければ、この州を安定させることはできないだろう」と告げます。

そして陶謙が没したので、糜竺は州民たちを率いて迎えに来ましたが、劉備は遠慮をして引き受けませんでした。

陳登の説得を受ける

そんな劉備のもとを、徐州の実力者である陳登ちんとうが訪れ、説得にかかります。

「いま、漢王朝は次第に衰え、天下はくつがえろうとしています。

いまこそが、功業を打ち立て、事を成す好機だと言えます。

この州は富裕な土地で、百万の人口を有しています。

そこの者たちが、あなたに頭を下げ、統治してほしいと頼んでいるのですぞ」

これに対し、劉備は「袁公路こうろ(袁術)がここから近い寿春じゅしゅんにいる。

彼は四代続けて五人の三公(大臣)を輩出した家柄で、天下の人々が帰服している。

徐州は彼に任せるのがいいのではないか」と答えました。

陳登は続けて言いました。

「袁公路は驕慢な男で、混乱をおさめられるような人物ではありません。

いま、徐州はあなたのために、十万の歩兵と騎兵を集めたいと望んでいます。

上は天子をお助けし、民を救済し、戦国の五(天下の混乱を鎮め、周王朝を補佐した諸侯たち)と同じ偉業を、成し遂げることができましょう。

下は領地を与えられて諸侯となり、国境を守り、功業を竹帛ちくはく(歴史書)に書き記されることになるでしょう。

もしもあなたがこの申し出を聞き届けられないのであれば、私もまた、あえてあなたの言葉に耳を傾けはしません」

孔融にも説得され、引き受ける

さらには孔融もまた、劉備を説得します。

「袁術は国を憂い、自分の家のことを忘れるような男(公のために尽くす男)ではありません。

彼は墓の中の骸骨と同様の存在であり、意に介するほどの者ではありません。

今日の事態は、民衆が有能な人物を求めたことによって発生しています。

天が与えた物を受け取らないと、後悔しても追いつきませんぞ」

このようにして、様々な方面から求められた結果、劉備はついに徐州を統治することを承諾しました。

劉備がためらった理由

普通に考えれば、一州を統治してほしいと望まれれば、喜んで引き受けるでしょうが、劉備はためらいました。

これには、いくつかの理由が考えられます。

この時の徐州は、南から袁術が、西から呂布が狙っている状況でした。

そして曹操もまた、父親を殺害されたことから徐州を敵視しており、たとえ支配するようになっても、維持するのが困難な状況にあったのです。

このため、つい先ごろまでは千程度の軍勢を持っていただけで、組織力に欠けている劉備が、いきなり縁のない広大な土地を支配し、これを守り通すのは、不可能に近かったのでした。

徐州で数万の兵を集められるといっても、それを統率できるようになるまでには時間がかかりますし、周囲には精強であったり、狡知に長けた諸侯たちがひしめいていたことを考えると、劉備がためらうのは、当然のことでした。

劉備が一州を安定して統治できるようになるには、まだ時期尚早だったのだと言えます。

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