劉備が亡くなる
これらの処置を終えてから、劉備は223年の6月に、永安宮で薨去しました。
享年は63でした。
諸葛亮が劉禅に上奏し、次のように述べています。
「伏して考えますに、大行皇帝(劉備)は仁に優れ、徳を樹立され、天下をおおうことは限りないほどのご様子でした。
しかし天は憐れみなく、病に伏して長きにわたり、今月二十四日、にわかに崩御されました。
群臣や妃たちは声をあげて泣き、あたかも父を亡くしたようであります。
遺詔をかえりみますと、皇統の継承を大事にし、損益を考えて行動せよ、と命じられています。
百官が喪につく場合、満三日で喪服を脱がせ、埋葬の期日になればいつもの礼式に戻れ。
郡国の太守や相・都尉、県令や県長たちにも、三日で喪服を脱がせよ、と申されています。
臣諸葛亮は、したしく勅命をお受けしたからには、神霊に対して畏れ慎み、あえて命にたがうことはいたしません。
人々に広く知らしめ、この通りに執り行われますように」
このようにして、劉備は自分の喪を短くさせ、まだまだ続く乱世に備えよ、と命じたのでした。
5月になると、柩が永安から成都に戻り、昭烈皇帝と諡されています。
そして8月に、恵陵に埋葬されました。
劉備評
三国志の著者・陳寿は「先主(劉備)は度量が広くて意志が強く、寛大で親切だった。
そして人物を見分け、それぞれの士人にふさわしい待遇を与えた。
高祖(劉邦)の風貌を備えており、英雄の器だった。
その国を任せて遺児を諸葛亮に託し、心には何の疑念も持たなかったことは、まことに君臣のあり方として至高のものであり、古今を通じての盛時である。
機略と権謀にかけては、曹操に及ばず、このために国土は狭かった。
しかしながら、敗れても屈せず、最後まで臣下とはならなかった。
これは曹操の器量からいって、絶対に自分を許容しないだろうと考えたからであり、ただ利を競ったわけではなく、害を受けることを避けるためでもあったのである」
劉備は漢が衰退していく中で、劉氏の一族の中で頭角を現していったために、小さいながらもその国を引きつぐことになりました。
曹操という強敵がいたために、その勢力は小さくなりましたが、人を引きつける魅力が曹操よりも勝っていたことから、完全に敗れ去ることはありませんでした。
劉備は人々の中心に立てる器であり、この時代を代表する英傑のひとりでした。
そして最後に、諸葛亮に全てを委ねるほどの信頼を寄せたことで、その姿が人々の心を打ち、やがて『三国志演義』において主役となり、物語の中で生き続けることになりました。
そのような劉備の深い信頼に、諸葛亮が全力でこたえたことで、この物語は完成し、不滅のものとなっています。
劉備と諸葛亮の関係には、成功や不成功、利益や損害といった現実的な価値観を超えたものが備わっており、それが大きく言えば、人間という存在のありようを押し広げる力をも、持っているのだと感じられます。