劉備玄徳 関羽や張飛とともに漢の復興を目指した、三国志の英傑

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曹操に厚遇を受ける

曹操は各地の英雄豪傑たちを、自分の元に集めていきたいと望んでいましたので、劉備がやってきたのを歓迎し、手厚い待遇を与えました。

そして劉備は、曹操によって豫州牧(刺史より上の長官職)に任命されます。

さらに曹操は、劉備を連れて小沛へとおもむき、散り散りになっていた兵を集め、兵糧を与え、さらに人数を増加した上で、呂布にあたらせることにしました。

こうして劉備は、曹操の傘下に入ることになります。

再び呂布の軍勢に打ち破られる

198年になると、呂布は使者に資金を渡し、河内かだいで馬を購入しようとしました。

しかし劉備の兵士がこれを奪い取ったので、配下の高順こうじゅん張遼ちょうりょうに命じ、劉備を攻撃させます。

曹操は腹心の夏侯惇かこうとんを派遣し、劉備を救援させようとしましたが、高順に打ち破られました。

そして劉備も小沛を守り切れず、9月に曹操の元に撤退しています。

この時に、劉備の妻子がまたも捕縛されてしまいました。

劉備は精強な呂布軍には歯が立たず、苦戦が続きます。

曹操が呂布討伐に出陣する

曹操はこの事態を受け、劉備とともに徐州に出陣し、呂布と自ら対戦しました。

そして野戦で大勝を収め、呂布を下邳に追いつめます。

この頃になると、曹操は呂布ですらも苦にせず、計略を駆使して圧倒するようになっていたのでした。

このあたりは、劉備が曹操に及ばないところでした。

しかし持久戦になると、物資が不足しはじめ、曹操は撤退を検討するようになります。

この時、参謀の荀攸じゅんゆう郭嘉かくかが水攻めを提案したので、これを実施すると、下邳は水浸しとなって、呂布軍の戦意がおおいに低下しました。

そして曹操軍に降伏する者が次々と現れたので、呂布も抵抗をあきらめ、ついに曹操に投降します。

呂布の処刑を勧める

曹操は呂布の武力を惜しみ、処刑するかどうかを迷いました。

すると劉備は「殿は、呂布が丁原と董卓に仕えながら、裏切った事実をお忘れでしょうか?」と進言し、処刑を促します。

これを聞いて曹操がうなずいたので、呂布は激昂し、劉備を指さして「この男こそが、信用できないやつなのだぞ!」と罵りました。

しかし曹操はもう心を変えず、呂布を縛り首にして処刑します。

こうして劉備と曹操を苦しめた呂布は、ついにその命を絶たれたのでした。

左将軍となる

劉備は再び妻子を取り戻すと、曹操に従って許都に戻りました。

すると曹操は上表し、劉備を左将軍に任命します。

これによって、劉備はさらに高い身分へと昇りました。

この頃に、関羽や張飛が中郎将に任命され、こちらも身分が高まっています。

このようにして、曹操は劉備軍を自分の配下として取りこもうとしたのでした。

曹操は劉備を丁重に扱い、外出する時は同じ輿こしに乗り、座る時には同じ席を用いる、というほどの待遇をします。

劉備地図5

劉備の扱いを巡る議論

こうして曹操は劉備を厚遇しましたが、一方でその参謀たちは、劉備の扱いを巡って議論をしていました。

劉備には英雄の資質があり、生かしておくといずれ邪魔になるので、今のうちに殺害してしまうべきだ、という意見が、程昱ていいくや郭嘉から提示されています。

一方で、今は各地の豪傑たちを傘下に取りこんでいかなければならない時期なのだから、劉備を殺してはいけない、という意見もありました。

結局、曹操はそのまま劉備を用いる選択をしますが、その方針が、いつ変わってしまうかはわかりませんでした。

はっきりとは伝えられないまでも、劉備はこのような曹操陣営の不穏な空気は感じ取っていたでしょうし、それが間もなく、劉備が曹操の元を離れた原因になっているのだと考えられます。

つまるところ、曹操には劉備を使いこなせるだけの度量は、なかったのだということでもあります。

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