劉備玄徳 関羽や張飛とともに漢の復興を目指した、三国志の英傑

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曹丕が劉備の敗北を予見する

ここまで陸遜は劉備に押され、戦線を後退させる一方となっていました。

しかしこれは陸遜のしかけた罠であり、劉備はそれにはまりこんでいました。

この時、劉備軍の陣営は七百里(420km)にも及んでおり、非常に長大なものとなります。

これを知った曹丕は「七百里におよぶ陣営を築き、敵と渡りあえるものがいるだろうか。

高原、湿地、険阻の地を包み込んで陣を構築する者は、敵に討ち破られる。

これは戦争における禁忌であり、孫権が間もなく勝利を上奏してくるであろう」

この曹丕の見立ては正しく、劉備は間もなく敗北することになります。

劉備は歴戦の武将であり、自軍が弱点を抱えていることは理解していたでしょう。

しかしそのようにして陣営を作らざるを得ないのが、益州から荊州を攻めることが困難な理由なのでした。

陸遜に攻撃され、敗北する

陸遜はそれまで、慎重に守りを固めていました。

しかし劉備軍が荊州の奥にまで入り込み、戦線が伸びきり、兵力が分散された状況になると、攻撃の機をうかがうようになります。

そして劉備軍が、長く続いた帯陣によって疲弊してきたのを見て取ると、一気に逆襲をしかけてきました。

陸遜はまず、劉備軍の陣営のひとつに火攻めをしかけ、これを陥落させました。

これをはずみとして総攻撃をしかけてくると、劉備軍はもろくも崩壊し、四十以上の陣営が一挙に陥落し、将軍の張南が戦死します。

さらには劉備の側近である馬良や、護軍(護衛の指揮官)の馮習までもが討たれており、劉備軍は壊滅状態に陥ったことがうかがえます。

そして呉の将軍・朱然しゅぜんが背後に回り込み、退路を断ってきたので、劉備軍の損害はさらに拡大していきました。

こうして関羽に続いて、劉備もまた陸遜に敗れ去り、蜀の荊州に対する影響力は、完全に潰えてしまいます。

この知らせを成都で聞いた諸葛亮は、「法孝直(法正)が健在だったなら、このような危険は避けられただろうに」と述べて嘆きました。

この時の劉備には、側に優れた参謀がついておらず、それが大敗を招き寄せてしまったのです。

諸葛亮は益州を守る役目についていたため、従軍していませんでした。

こうして蜀・魏・呉の三国の領土は、ほぼ確定された状況となり、以後は各勢力ともたびたび出兵するものの、目立った戦果はあげられず、膠着状態となります。

劉備地図14

撤退する

この時の被害は甚大で、荊州への攻撃を継続するのは不可能となりました。

劉備は秭帰に戻って離散した兵士を収容すると、船を捨て、陸路で魚復ぎょふく県へと戻り、その名を改めて永安えいあんとします。

しかし劉備は成都には戻らず、そのまま永安にある白帝城に滞在し、荊州ににらみをきかせました。

これは呉が、蜀の領土にまで押しよせることを警戒してのことだったのでしょう。

黄権が取り残される

こうして劉備が撤退すると、長江の北にいた黄権は退路を断たれ、取り残されてしまいました。

このため、黄権はやむなく魏に降伏しています。

この時、黄権の行動を司法官が咎め、蜀に残っている家族を処刑するべきだと主張しました。

これに対し劉備は「わしが黄権を裏切ったのであって、黄権がわしを裏切ったのではない」と述べ、取り上げませんでした。

敗戦の失意の中にあっても、劉備は血迷って道義を見失うようなことはなかったのでした。

なお、この後で「黄権の家族が処刑された」という知らせが魏に届きますが、黄権は、劉備や諸葛亮がそんなことをするはずがない、と考えて信用しませんでした。

すると、しばらくして誤報だったと判明した、という挿話があります。

彼らは離れていても、心が通じ合っていたのでした。

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