蜀に入る
劉備は荊州の抑えとして、諸葛亮、関羽、張飛、趙雲といった、従来の主力部隊を残していくことにしました。
そして荊州の占拠後に新たに仕えた、龐統、黄忠、魏延といった者たちを連れ、数万の軍勢を率いて蜀に入ります。
そして涪で劉璋と会見をしましたが、劉璋はこのとき、たいそう豪華な馬車に乗っており、蜀の豊かさを劉備に見せつけました。
やがて宴会が開かれましたが、それは百日間にも及び、劉備の将兵たちは、かわるがわるもてなしを受けています。
このような土地と、脆弱な統治者がいる地域は、戦乱の時代になれば、侵略を受けるのは必然だったと言えます。
劉璋を捕らえるように求められる
張松はこの時、劉璋を劉備に捕らえさせ、一気に決着をつけてしまうべきだと考えました。
このため、法正に連絡し、龐統からこの策を劉備に伝えさせます。
龐統は「この会合を利用し、ただちに劉璋を捕縛するべきです。
そうすれば将軍(劉備)は軍兵を用いる必要がなくなり、簡単に一州を平定することができます」と述べました。
劉備はこれに対し「わしは他国に入ったばかりで、まだ人々に恩愛や信義を示していない。
それはだめだ」と言って、性急な策を退けました。
葭萌に駐屯する
こうして裏側で陰謀が進行しているとも知らず、劉璋は劉備を行大司馬(総司令官代行)、司隷校尉(首都圏の長官)に推挙しました。
劉備も返礼として、劉璋を行鎮西大将軍、益州牧に推挙します。
そして劉璋は劉備の兵を増強し、さらに白水の軍勢の指揮権を与えます。
これによって劉備軍は三万以上となり、兵糧に戦車、甲冑、武器などを豊富に揃えることになりました。
劉璋は自らの手で、侵略者の力を強化したことになります。
やがて劉璋は成都に帰還し、劉備は北方の葭萌に駐屯しました。
しかしすぐに張魯を討伐しようとはせず、厚く恩徳を施し、人心を引きつけることに力を注ぎます。
やがて決起した際に、蜀の人士や民を味方につけるための措置でした。
こうして下地を作っておかなければ、蜀を奪って支配を固めるのは難しいと、劉備は考えていたのでした。
張松よりも、劉備の方が見識の広さにおいては、優れていたのだと言えます。
龐統の三つの策
葭萌に駐屯している間に、龐統が劉備に三つの策を示しました。
「精鋭の兵を選び、昼夜兼行で成都に向かい、襲撃します。
劉璋には武勇がなく、平素から備えをしていませんので、大軍で押しよせれば、一回の攻撃で平定できるでしょう。
これが最上の策です」
と、まずは速攻の計略を示しました。
曹操であれば、おそらく採用していたでしょう。
「楊壊や高沛は、劉璋軍の中では優れた武将です。
それぞれに強力な軍勢を擁し、白水関にたてこもっています。
聞くところによると、彼らは劉璋を何度もいさめ、将軍(劉備)を荊州に帰還させよ、と述べているそうです。
将軍は荊州に危険が迫っているから、帰還してこれを救援するつもりだと説明し、兵士たちにその準備をさせてください。
そうすれば、楊壊と高沛は将軍の英名を慕っております上、将軍が帰還することを喜び、軽装で会いにくるでしょう。
将軍はその機会に彼らを捕らえ、その軍勢を奪い、それから成都に向かいます。
これが次善の策です」
このように、最初の策よりはやや慎重なものを提示します。
「撤退して白帝に戻り、さらに荊州にまで引き返し、ゆっくりと戻りながら手段を講じる。
これが一番まずい策です。
もしも思い悩んで去らなければ、大難を招くことになりますので、長くこの地に留まってはなりません」
龐統がこのように述べると、劉備は次善の策に賛成し、これを採用することにします。
【次のページに続く▼】