劉備玄徳 関羽や張飛とともに漢の復興を目指した、三国志の英傑

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曹操暗殺の陰謀

この頃には、朝廷の内部で、密かに曹操を排除しようとする陰謀が進行していました。

劉備は献帝の親類で、車騎しゃき将軍の地位にあった董承とうしょうから「曹操を誅殺すべし」という勅命を受けたことを知らされます。

劉備が曹操と親しくしていましたので、これを果たす上で、うってつけの人間だと思われたのでしょう。

これによって劉備は陰謀に巻き込まれたのですが、ひとまずは行動を起こしませんでした。

天下の英雄

そんな状況下で、曹操は劉備を招き、一緒に食事をします。

そしてくつろいでいる時に、曹操は「いま、天下に英雄といえば、あなたと私だけだ。

本初ほんしょ(袁紹)のような連中は、取るに足りない」と言いました。

これを聞くと、劉備は陰謀の件があったので驚き、ものを食べようとして手にしていた箸を、取り落としてしまいます。

ちょうどこの時、雷がとどろいたので、劉備はそれにかこつけて曹操に言いました。

「聖人(孔子)が『突然の雷や激しい風に対しては、必ず居住まいを正す』と言っていますが、もっとなことですな。

雷鳴がもたらす大気の震えが、これほどのものとは」

そのようにして、この場を取りつくろったのでした。

劉備はさぞかし、肝を冷やしていたことでしょう。

計画に加わる

曹操の暗殺計画が持ち上がったのは、朝廷内の権力争いもあったでしょうが、曹操が献帝や皇族になんら実権を与えなかったので、漢から帝位を奪うつもりではないかと、疑われるようになっていたことが強く影響しています。

このため、劉備は董承や、長水ちょうすい校尉の种輯ちゅうしょう、将軍の呉子蘭ごしらん王子服おうしふくらと計画を練るようになりました。

しかし董承の陣営は人材が少なく、兵士の数も多くなかったので、劉備は成功を危ぶんだと思われます。

それに陰謀というもの自体、信義を重視し、堂々とした戦いを好む劉備が、積極的に加担したものではなかったでしょう。

勅命が下っていたために無視はできなかったものの、劉備にとっては迷惑な話だったかもしれません。

袁術を討ちに出陣する

この頃、ちょうど敗北を重ねて勢力を失った袁術が、従弟の袁紹を頼って北上しようとしている、という情報が入りました。

すると曹操は劉備に諸将を統率させ、これを討たせることにします。

劉備はこうして徐州に出陣することとなり、陰謀が渦巻く許都から離れることになります。

おそらく劉備は、ほっとしていたことでしょう。

劉備が出発した後で、郭嘉は劉備が曹操陣営から離脱することを予測し、それを曹操に警告しましたが、後の祭りでした。

袁術が死去し、董承らは処刑される

劉備は朱霊しゅれい路招ろしょうを率いて出陣しましたが、袁術は徐州に入る前に病が重くなり、死去しています。

こうしてまたひとり、群雄が世を去りました。

そして劉備が離れた後の都で、まだ行動を起こさぬうちに陰謀が発覚し、董承たちはひとり残らず処刑されます。

このようにして情勢が大きく変動し、劉備もまた行動を開始しました。

徐州を占拠する

この頃には、曹操と袁紹の同盟は破綻し、彼らは正面からぶつかるようになっていました。

袁紹は曹操の倍以上の兵力を持っていましたので、曹操は対処にかかりきりになり、徐州に遠征はできないだろうと、劉備は予測します。

このため、朱霊らが帰還すると、劉備は曹操が配置した徐州刺史・車冑しゃちゅうを殺害し、下邳を占拠しました。

そして関羽に下邳を守らせ、自身は小沛に駐屯します。

するとこれに呼応して、東海郡の昌霸しょうはが反乱を起こし、多くの郡県が曹操に背き、劉備の味方となりました。

その軍勢は数万の規模となります。

先に曹操は徐州で虐殺をしていましたので、劉備の復帰を歓迎する徐州の人が、多かったのだと考えられます。

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