劉備の性格と容貌
廬植の元で学ぶうちに、やがて劉備と公孫瓚の友情が深まりましたが、公孫瓚の方が年長だったので、劉備は彼に兄事しました。
このことが、後に劉備の苦境を救うことになります。
劉備の生活態度ですが、読書はそれほど好まず、犬や馬や音楽を好み、衣服を美しく整えていました。
このことから、享楽的な性格を持っていたようです。
身長は七尺五寸(約173cm)で、手を下げると膝まで届くほどの長さがありました。
そして振り返ると自分で見れるほど、耳が大きいという特徴を持っています。
口数は少なく、よく人にへりくだり、喜怒の感情を顔色に表しませんでした。
人気者となり、資金援助を受ける
劉備は好んで豪傑や侠客たちと交流をしたので、若者たちは争うようにして、劉備と接するようになります。
こうして知り合っていった者たちの中に、関羽や張飛もいたのでしょう。
この頃、中山の大商人である張世平や蘇双らは、千金の資本をたずさえ、馬を買い求めるために琢郡を巡っていました。
その途中で劉備に会うと、これはただ者ではないと思い、多くの資金を与えます。
劉備はこのおかげで元手を手に入れ、仲間を集めることができたのでした。
叔父といいこの商人たちといい、劉備には援助をしたいと思わせるところがあったようです。
劉備のこうしたところは生涯変わらず、支援者が次々と現れ、それによってのし上がって行くことになります。
黄巾の乱の討伐に参加する
やがて184年になると、黄巾賊が決起し、各地で大規模な反乱が勃発しました。
すると州郡は、それぞれに義兵を募るようになります。
劉備はこの時23才になっていましたが、集めた仲間を引きつれ、校尉(中級指揮官)の鄒靖に従って、黄巾賊の討伐に参加しました。
この仲間の中に関羽や張飛がおり、最初は劉備の護衛役となっています。
劉備は二人と寝起きをともにし、実の兄弟のように恩愛をかけ、親しく接しました。
すると関羽と張飛は、劉備に絶大な忠誠を誓うようになります。
後に彼らは「兵一万にも匹敵する」と言われるほどの武将になりますが、その二人が初めから加わっていたわけですので、劉備の部隊は少数ながらも精鋭だったのだと言えます。
こうして強力な兵団を形成しはじめた劉備は、乱世の中で名をあげていくことになります。
なお、演義の「桃園の誓い」は創作ですが、この頃に劉備が生涯に渡る仲間を得たことを、表現したものなのだと言えます。
他には簡雍が劉備の相談役として、仲間に加わっています。
張純の討伐にも参加し、地位を得る
黄巾の討伐に参加したことで、劉備の武名は、早くも世に知られるようになりました。
この頃、幽州では中山太守の張純が反乱を起こし、烏桓族と手を組んで各地を荒らし回っていました。
このため、やがて青州に勅命が下され、張純を討伐することになります。
そして青州の軍勢が平原国にさしかかった時、劉子平という人が、劉備を「武勇に優れた人物です」として紹介しました。
その結果、劉備は討伐軍に随行することになり、賊軍と遭遇して戦うことになります。
劉備はこの戦いで負傷しましたが、死んだふりをして難を逃れ、賊軍がいなくなってから、友人に車に乗せてもらって脱出しています。
このように危ういところもありましたが、その後の戦いで軍功を立てて報償を受け、中山郡、安喜県の尉(警察・軍事権を司る役人)に任命されました。
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