劉備玄徳 関羽や張飛とともに漢の復興を目指した、三国志の英傑

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漢中攻略戦

劉備は黄権や法正の意見に従い、漢中の攻略に力を注ぐことにします。

すでに触れましたが、漢中は益州と司州、涼州を結ぶ交通の要所で、ここを抑えておけば益州は防衛しやすくなり、逆に敵に取られると、侵攻を許すことになってしまう、重要拠点でした。

このため、劉備が益州の支配を確立するためには、是非とも抑えておかなければならない地域だったのです。

218年になると、劉備は諸将を率いて漢中に侵攻し、同時に武都方面に雷同らいどう呉蘭ごらんを派遣し、二方面で攻撃をしかけました。

しかし雷同と呉蘭は曹操軍に敗北し、討ち取られてしまい、こちらの方面では作戦が失敗しています。

定軍山の戦い

劉備は陽平関ようへいかんに入って夏侯淵・張郃とにらみ合っていましたが、219年の春になると、沔水を渡って山沿いに進み、定軍山ていぐんさんに陣営を築きました。

すると夏侯淵がやって来て、この地で争奪戦が始まります。

そしてある夜、劉備は法正の策を採用し、大規模な攻勢に出ました。

この時、夏侯淵は陣営の南を、張郃は東を守っていました。

劉備は敵陣の柵に火をかけると、まず張郃の軍勢に攻撃を集中させ、撃破します。

すると夏侯淵が自軍の半分を救援に送り出し、南が手薄となりました。

法正はその機を見て取ると「黄忠に夏侯淵を攻撃させるべきです」と劉備に進言します。

劉備がこれを受け、実行させると、黄忠は陣太鼓を打ち鳴らし、兵を励まし、ほこを突き立てて猛攻をしかけ、ただ一度の戦闘で夏侯淵を討ち取りました。

さらには曹操が益州刺史に任命した趙顒ちょうぎょうをも斬り、曹操軍を撤退させることに成功します。

こうして法正の策と黄忠の武勇によって、劉備は大勝利をおさめたのでした。

曹操が侵攻してくる

夏侯淵は曹操が旗揚げして以来の重臣で、曹操軍の西域における活動を統括する地位についていました。

その夏侯淵を討ち取ったことで、劉備軍の武威が非常に高まっていることが証明されたのでした。

曹操はこの事態を打開するため、219年の春になると、自ら長安に向かい、大軍を率いて漢中に攻め寄せてきます。

すると劉備は防衛作戦を立て、「曹操が来たとしても、何もできないだろう。

私は必ず、漢川かんせんを保持する」と宣言しました。

法正に諫められる

劉備が曹操と戦った際に、形勢が不利となり、退却しなければならない事態が発生したことがありました。

しかし劉備はこの時、いきり立っており、退却を承知せず、周囲にはいさめることができる者もいませんでした。

やがて矢が雨のように降り注ぎますが、そこで法正が進みより、劉備の前に立ちはだかります。

劉備が「孝直こうちょく(法正)よ、矢を避けよ」と言うと、法正は「殿がみずから矢石の中におられるのです。

私のようなつまらぬ男がその中にいるのは、当たり前のことです」と答えました。

すると劉備は頭が冷えたようで、「孝直、わしはおまえと一緒に引きあげよう」と言い、退却します。

この時期にはこのように、法正が劉備の参謀として、最も身近なところで支えていたのでした。

劉備は感情に突き動かされ、誤った判断を下すこともありましたが、だからこそ謀臣たちは、劉備のために命をかけて尽くすことが多かったのでしょう。

それをなさしめたのは、劉備が普段から、配下の者たちに厚く恩愛を施していたことが、強く影響していました。

曹操を苦戦させる

漢中はもとより、周囲を山に囲まれており、守りに適した土地柄でした。

このため、劉備は要害を構えてそこに立てこもり、正面から曹操と戦わないようにします。

曹操は騎兵の機動力を活かした戦術を得意としていましたが、この状況では、その力をまったく発揮できませんでした。

それでも軍勢に攻撃をしかけさせましたが、劉備の陣営を攻略することはできず、死者が日ごとに増えていきます。

ある時、劉備が養子の劉ほうに命じて前衛を務めさせると、曹操は「靴売りのせがれめが、偽の子どもをわしにけしかけるのか!」と口汚く罵りました。

曹操は劉備に手も足も出ず、相当に頭にきていたようです。

曹操が撤退し、漢中の支配を確立する

万策が尽きた曹操は、夏になると劉備が予言した通り、軍を引きあげて撤退しました。

こうして劉備は、赤壁に続いて、曹操に二度目の勝利を得ています。

前回は孫権と共同でしたが、今度は劉備単独での勝利であり、これによって劉備の武名は、ますます高まりました。

劉備はこの余勢をかって、劉封と孟達もうたつに命じて上庸じょうようを攻撃させ、この地方を占拠することに成功します。

この時期が、劉備の最盛期だったと言えます。

劉備はこの時、58才になっていました。

劉備地図13

漢中王となる

この年の秋、群臣たちが劉備を漢中王に推挙し、皇帝に上表をします。

そして同時に大司馬(国軍の最高官)にも推挙し、魏王となっていた曹操と、同等の地位につくことを宣言しました。

漢中はかつて、先祖の劉邦が根拠地とし、天下を平定した、劉備にとっては縁起のよい場所でした。

このため、臣下たちは漢中王を名のることを勧めたのです。

沔陽べんように壇場が設けられ、兵が整列し、群臣が陪席し、上表文を読み上げ、劉備に王の冠をかぶらせます。

こうして劉備は、ついに王にまで位を進めました。

そして改めて、曹操を討って漢王室を復興することを誓っています。

劉備には実力も大義も備わり、連戦連勝し、あるいはその念願は、果たされるかに見えました。

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