劉備を招くように勧める
劉璋は「わしもそのことを憂いている。だが、今のところよい考えは浮かばない」と答えます。
張松は「劉豫州(劉備)は殿のご一族にあたる上、曹操の仇敵です。
用兵が巧みですから、もし張魯を彼に討伐させれば、張魯はきっと敗れるでしょう。
張魯を打ち破れば、益州は強固になります。
それから曹操がやって来ても、どうすることもできないでしょう」
張魯はかつて劉璋に従っていたのですが、やがて漢中で独立割拠し、劉璋と敵対するようになっていました。
このため、劉璋は張魯を討伐しようとしていたのですが、配下の武将を統御できず、うまく進んでいませんでした。
張松はそれを劉備にやらせればよいと勧め、劉備が蜀に入れるようにと仕向けたのです。
法正が劉備への使者となる
劉璋は張松の進言をもっともなものだとして受け入れ、黄権や王累ら、他の臣下が反対するのを押し切って、法正を使者として送り出します。
劉備を蜀に入れれば、ひとつの土地に主が二人存在することになり、必ず変事が起きるというのが、反対者たちの意見でした。
これは的確な指摘でしたが、劉璋には、それを理解できるだけの智謀は備わっていなかったのでした。
ただ曹操の圧迫から逃れたいと、その思いしかなかったのでしょう。
法正が蜀の内情を伝える
法正は四千の兵を率い、劉備を迎えに行きます。
そして劉璋は、その前後に渡って劉備に巨額の贈り物をしました。
蜀は肥沃な土地を備え、絹織物の産地であり、塩や鉄も取れる富裕な土地でした。
それゆえに劉備も孫権も、どちらも蜀を欲したのです。
劉備に法正に会うと、手厚く恩情を込めて接し、心からの歓待を行いました。
これによって法正もまた劉備に惚れこみ、蜀の地理や兵器、倉庫、人馬の量、そして要害への道のりなどの機密情報を、たずねられるままに劉備に教えます。
これによって劉備は、すっかりと蜀の内情を把握したのでした。
龐統との議論
こうして劉備が蜀に入るためのお膳立ては整っていきましたが、劉備には、まだためらいが残っていました。
同族が支配する土地を奪うのは、どう理由付けをしようとも、悪事であることに変わりはなかったからです。
龐統はそんな劉備の様子をみて、次のように言います。
「荊州は荒廃し、優れた人材が乏しくなり、東には呉の孫氏がおり、北には曹氏がいて、三国鼎立の計画も、思い通りにはいきがたいと思われます。
現在、益州(蜀)は国が富み、民も豊かで、人口は百万です。
この地を抑えれば、全軍の兵馬を揃えることができ、財産を他に求める必要もありません。
この地をしばらく拝借し、大業を定めるのがよろしいでしょう」
すると劉備は、次のように答えます。
「いま、わしと水と火の関係にあるのは曹操だ。
曹操が厳格にすれば、わしは寛大にする。
曹操が暴力に頼れば、わしは仁徳に頼る。
曹操が詐術を行えば、わしは誠実に行う。
曹操と反対の行動を取ってこそ、事ははじめて成就する。
いま、小事のために天下に対して信義を失うのは、わしの望むところではない」
龐統が説得する
これに対し、龐統が言いました。
「いまはその場に応じた方策を取らなければならない時代であり、物事の方針は、正義のみで決めることはできません。
弱き者を併合し、暗愚の者を攻略するのは、春秋時代の五霸が成したことです。
たとえ武力という無理な手段で益州を奪おうとも、その後で文治という正しい方法で維持すればよいのです。
そして道義をもって彼らに報い、事が定まった後、大国に封じてやれば、信義に背くことにはなりません。
いま奪ってしまわなければ、結局は他人が得をすることになります」
このように龐統に説かれた結果、ついに劉備は益州の奪取を決意します。
このまま放置して曹操や孫権に取られるよりも、自分で抑えてしまった方がよい。
そうしなければ、漢王朝の復興は不可能だ。
そのように考えて、ようやく決断を下したのだと思われます。
この時にはじめて、劉備は帝王への道を歩み始めたのでした。
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