平原の相となる
劉備はこの時もまた、たびたび戦功を立てたので、やがて平原国の統治を代行するようになります。
これをうまくやりこなしたので、やがて正式に平原の相(統治者)となりました。
国の相は、郡の太守に相当する地位ですので、劉備の地位がまた一段、高まったことになります。
暗殺から逃れる
この頃、平原の郡民に劉平という者がいましたが、以前から劉備を軽んじていたので、その統治下に置かれることを、ひどく嫌いました。
このため、刺客を送って劉備を殺害しようとします。
劉備はそれと知らず、訪ねてきたこの刺客を、手厚くもてなしました。
すると、刺客は劉備に危害を加えるのが忍びなくなり、ありのままを語って立ち去ります。
このように、劉備は危ういところを、人徳によって逃れたのでした。
平原の統治で事跡をあげる
この頃、民は飢饉に苦しめられ、寄り集まって賊となり、各地で略奪を働くようになります。
劉備は、外に対しては賊の侵入を防ぎ、内に対しては経済が豊かになるようにと、政策を実行しました。
そして身分の低い士人もわけへだてなく、必ず席を一緒にして座り、同じ食器で食事をし、えり好みをしませんでした。
このため、おおぜいの人が劉備に心を寄せ、戦いだけでなく、統治者としても優れていると、評判が広がっていきます。
劉備は読書を好まなかったものの、高名な儒学者たちに師事し、政治のやり方を学んでいました。
その性質が平原国の相となった時にいかされ、多くの衆望を集めることにつながったのでしょう。
太史慈に支援を求められる
この頃、北海国の相である孔融が、黄巾賊の残党に城を包囲され、危機に陥っていました。
すると孔融に恩を受けていた太史慈が、騎馬で城を脱出し、劉備に救援を求めて来ます。
太史慈はこの時「あなたは仁義を行われることで名があり、他人の危急を救われることから、北海どの(孔融)は心よりあなたをお慕いしています」と述べており、劉備が人からどう見られるようになっていたかがわかります。
劉備は孔子の子孫で、高名な孔融に助けを求められたことを喜び、三千の兵を援軍として派遣しました。
このようにして、他国からも助けを求められるほどに、劉備の名声は高まっていたのでした。
徐州の救援に向かう
やがて袁紹が公孫瓚を攻撃してくるようになったので、劉備は田階とともに東に向かい、斉に駐屯します。
するとこの時、曹操が父親の仇を討つために、徐州に侵攻しました。
これによって危機に陥った徐州牧の陶謙が、使者を送って田階に急を知らせてきたので、劉備は田階とともに陶謙の救援に向かいます。
この時、劉備は私兵千人と、烏桓族の騎兵隊を抱えていましたが、さらに飢えた民衆を数千人ほど配下に組み込み、人数をかさ増ししました。
これによって陶謙や曹操に、自分の勢力が大きいと見せかけようとしたのでしょう。
陶謙に身を寄せる
劉備たちが到着すると、陶謙は劉備を見込んで、丹楊の兵を四千人ほど与えました。
丹楊は精兵を輩出することで知られる土地ですので、これによって劉備の軍事力は、飛躍的に強化されます。
劉備に武名があったのと、数千人を連れていたのを見て、陶謙はこのような措置をとったのでしょう。
実はその多くは難民だったのですが、劉備の計略がうまく成功したことになります。
劉備は乱世の中で、短期間でのしあがっただけのことはあり、抜け目のないところも備えていました。
こうして劉備は厚遇を受けたため、田階から離れ、陶謙に身を寄せることにしました。
【次のページに続く▼】