衛覬は曹操や魏の皇帝たちに仕えた人物です。
情勢を見通す目が優れており、曹操や魏の皇帝たちに、たびたび有効な献言をしていました。
曹操には西方の統治について的確な意見を述べ、曹叡に対しては贅沢を控え、財政に配慮するようにと促しています。
また、古典に通じ、戦乱によって失われていた朝廷の制度の立て直しにも貢献しました。
この文章では、そんな衛覬について書いています。
河東に生まれる
衛覬は字を伯儒といい、河東郡安邑県の出身です。
若くして成熟し、その才能と学問によって称揚されました。
曹操は衛覬を呼び寄せて司空掾属(大臣属官)にし、茂陵の県令と尚書郎に任命します。
関中に留まる
曹操が袁紹を討伐した際に、劉表は袁紹を支援し、関中(西方)の諸将は中立の立場を取りました。
そして益州牧(長官)の劉璋は、劉表とは関係がよくありませんでした。
このため、衛覬は治書侍御史として益州への使者となり、劉璋に兵を出させて劉表を牽制させようとします。
しかし長安にたどり着くと、益州への交通が途絶えていたので、衛覬は先に進むことができませんでした。
このため、関中にとどまって守りについています。
関中の情勢に意見を述べる
このころ関中では、四方から戦乱のために離れていた民が帰還してきていました。
関中の諸将はその多くを自分のところに引き入れ、部隊を編成します。
この情勢を見た衛覬は、書状を荀彧に送って述べました。
「関中は肥沃な土地ですが、この頃は荒廃と戦乱に遭遇していました。
このため、荊州に流れ込んでいた十万余家の人民たちは、故郷が安寧になったと聞くと、みなが帰還したいと望んでいます。
しかし帰還した者たちは生業がなく、諸将はそれぞれが競って懐に招き入れ、軍勢に組み込んでいます。
郡県は貧弱で、これと争うことができず、軍閥の力が強まっています。
いったん変事があれば、必ず後の憂いとなるでしょう。
そもそも塩は国家にとって大事な宝ですが、動乱が発生してからというもの、管理が行き届かなくなっています。
旧来のように使者を置いて売買を監督させ、その利益をもってまだら模様の牛を買い、もしも帰還した民があれば、これに供給するべきでしょう。
そして耕作に勤め、穀物を積み上げ、関中を豊かにします。
民がこれを遠くで聞けば、必ず日夜を競って帰還するようになるでしょう。
また、司隷校尉を駐留させ、関中の主とすれば、諸将の力は日毎に削られ、官民は日毎に盛んになっていきます。
これは大本を強くし、敵を弱め、有利になるための方策です」
荀彧はこれを曹操に伝えます。
曹操はこの意見に従い、謁者僕射を派遣して塩の売買を監督させ、司隷校尉(首都圏の行政長官)に弘農を治めさせました。
すると関中は服従します。
荀彧は衛覬を召し出すように進言し、それから次第に地位が上がり、尚書(政務官)になっています。
朝廷の制度の立て直しに貢献する
漢の都が長安に移されたころ、朝廷の旧来からの事例は散逸してしまいました。
このため、曹操によって許に都が移された後、少しづつ制度が整備されていきました。
衛覬は古い事例に通じていたので、この事業に大いに貢献します。
関中への対処にさらに意見を述べる
このころ、関西の諸将は表面的には従っていたものの、内実では信頼できない存在でした。
このため、司隷校尉の鍾繇は三千の兵を率いて関中に入り、張魯を討つためだと外に向かって宣伝しつつ、実際には諸将を圧迫し、人質を取りたいと計画しました。
すると曹操は荀彧をつかわし、衛覬に意見をたずねさせます。
衛覬は次のように答えました。
「西方の諸将はみな小者が頭をもたげただけの存在で、天下に雄飛しようという意志はもっていません。
目先の安楽を欲しているだけです。
ですので、いま国家が厚く爵号を与えてやれば、彼らは希望がかなえられ、大きな問題は発生しなくなり、変事が起こるのではないかと心配する必要もなくなります。
そして後からどうとでも図ることができます。
もしいま、兵を関中に入れますと、張魯を征討することになりますが、張魯は深山に割拠しており、道は通じていませんので、諸将たちは必ずこちらの本意に疑いを抱くでしょう。
ひとたび彼らが驚き動揺すれば、土地は険阻で、兵は精強ですので、これを収めるのは難しくなります」
荀彧はこの意見を曹操に伝えました。
曹操は初めはこの意見を受け入れるつもりでしたが、鍾繇が担当者でしたので、結局は鍾繇の意見を採用します。
軍勢が進み始めると、果たして関中では大きな反乱が発生し、曹操が自ら討伐することになり、数万の死者を出すことになりました。
曹操は衛覬の意見に従わなかったことを後悔します。
そして衛覬を、より重んじるようになりました。
魏が建国されると制度の制定を担当する
やがて曹操が魏王となり、魏が建国されると、衛覬は侍中(王の側近)に任命され、王粲とともに諸制度を制定します。
そして曹丕が魏王に即位すると、尚書になりました。
それから後漢の朝廷に戻って侍郎となり、禅譲の義を勧め、命令を出すための詔文を作成しました。
曹丕が皇帝に即位すると、再び尚書となり、陽吉亭侯に封じられます。
このようにして、衛覬は後漢から魏に政権が移行する際に、その実務を取り扱ったのでした。
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法の整備を上奏する
二代皇帝の曹叡が即位すると、衛覬は閺郷侯に昇進し、食邑は三百戸となります。
このころ、衛覬は法制度について上奏しています。
「九章の法律が古代から伝わっていますが、それは刑罰や罪を定めており、その内容は微にして妙なものです。
百里を治める地方官も、みなこれをよく理解しているべきです。
刑法は国家にとって重要なものですが、私人の議論においては、軽んじられ、蔑まれます。
獄吏は民衆の命に関わる者ですが、選ばれ用いられる者はこれを卑下します。
王政が悪化するのは、これが原因でなかったことはありません。
どうか法律博士を設置し、教えあう仕組みを作って下さい」
これは実施に移されました。
曹叡の奢侈を戒める
このころ、民衆は疲弊していましたが、にも関わらず、課される公役が多かったので、衛覬は上奏して意見を述べます。
「人の心情を変え、本性を磨くのは、強く働きかけたとしても、実現はできません。
人臣がそのような事を言うのは簡単ではありませんし、主君がそれを受け入れるのもまた困難です。
そして人が楽しむのは富貴と栄光であり、嫌うのは貧困と死です。
しかもこの四つのものは、君主が制御できることです。
君主の寵愛が得られれば、すなわち富貴と栄光が得られ、君主から憎まれれば、すなわち貧困と死が与えられます。
君主の意向にそえば寵愛が得られ、逆らえば憎しみを受けることになります。
ゆえに臣下はみなが争ってご意向に沿おうとし、逆らうことを避けます。
家が破滅しても国家のために身を殺し、君主の成功のために尽くそうとする者でなければ、誰が君主の顔色をうかがわず、忌まれることに触れ、献言をし、自説を開陳することがありましょうか。
陛下がこのことを意にとどめ、お察しくだされば、臣下たちの感情を読み取ることがおできになります。
いま議論をする者たちは、お耳をよろこばすことを好むものが多くなっています。
政治について意見を述べる時には、陛下を堯舜(古代の聖人)になぞらえ、征討について語る時には、二つの敵(蜀と呉)を狸や鼠にたとえます。
臣はそうは思いません。
その昔、漢の文帝の時、諸侯は強大で、賈誼は嘆息をして、非常な危機であると考えました。
いわんや、今は国内が三つに分かれており、士人たちはそれぞれの主君のために力を尽くしています。
降伏してくる者たちは、邪悪を離れ正義に就こうとしたのだとは言わず、困難や危急に遭遇したためだと称しています。
これは六国が分割して統治していた時代(戦国時代)と異なるところはありません。
いま千里にわたって煙がたたない地域があり、放り出された民は困苦しています。
陛下が意に留められないのであれば、ますます疲弊が進み、復興することは不可能になります。
礼においては、天子が用いる器は必ず金玉で飾られ、飲食の肴には必ず八種の珍味がついていますが、土地が荒れ、凶作の時には、膳部を取り去り、服を簡素なものにします。
豪奢にするか、倹約するかは、必ず世の中の豊かさや貧しさを見てから定められます。
武皇帝(曹操)の時には、後宮での食事は肉一皿をすぎることなく、衣服には錦や刺繍を用いず、しとねには縁飾りをせず、器物に丹や漆を塗らず、これによって天下を平定し、子孫に福を遺されたのです。
このことは、陛下が親しくご覧になられたことです。
現在の要務は、君臣が上下ともに計算尺を用い、国家財政を計算し、収入を考慮して支出を定めることにあります。
句踐(古代の越王)が民をうるおした方策に深く思いをいたしますと、それに及ばないことに恐れを感じます。
尚方(宮中の道具を制作する部署)で作られる金銀の物は、だんだんと増えており、土木工事はやむことなく、贅沢は日ごとに重ねられ、金蔵は枯渇しつつあります。
その昔、漢の武帝は神仙の道を信仰し、「雲の表面にある露を得て、玉の粉を飲むべきだ」と言いました。
ゆえに仙掌(天から降る甘露を受けるための器物。武帝はこれを宮中に銅柱で作った)を立て、高所の露をうけました。
陛下は聡明な方ですので、このことをいつも非難し、笑われます。
漢の武帝には露を求めるという動機がありましたが、それでもなお非難されています。
陛下は露を求める動機がないのに、空しくこれを設置しておられます。
好みを満たす役にも立たないのに、労力を浪費されています。
まことに聖慮によって制御されるべきことだと考えます」
衛覬は漢と魏の時代において献じた忠言は、このようなものでした。
著作をし、書体も優れていた
衛覬は詔を受け、著作して『魏官儀』を制作しました。
著作はおおよそ数十篇に上っています。
古文の篆書や隸書を好み、その書体は優れたものでした。
建安の末期ごろには、尚書右丞の河南の潘勖が、黃初の時には散騎常侍の河内の王象らが、衛覬と並び、文章をもって顕彰されています。
やがて衛覬は死去すると、敬侯とおくりなされました。
子の衛瓘が後を継ぎ、後に咸熙年間に鎮西将軍にまで立身しています。
衛瓘は清廉で道理に明るく、若くして傅嘏の知遇を得ていました。
そして内外の官職を歴任し、晋の時代になると尚書令(政務長官)、司空(大臣)、太保(皇帝の側近)にまでなっています。
二代皇帝の恵帝の補佐にもあたりましたが、楚王の司馬瑋によって殺害されてしまいました。
衛覬評
三国志の著者・陳寿は「衛覬は古典に詳しく、このために時の朝廷の儀式を補佐した」と評しています。
衛覬は単に故事を知っているだけでなく、現在の情勢を的確に分析し、主君に忠言できるだけの行動力も備えていました。
曹操から重んじられたとあるように、時の朝廷にとって有用な人物だったと言えます。