諸葛亮孔明 漢王朝の復興を目指し、魏に戦いを挑んだ蜀の宰相

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赤壁の戦いに勝利する

これを聞いた孫権は喜び、腹心の周瑜しゅうゆや魯粛が主戦論を唱えたこともあって、曹操との戦いを決断します。

そして周瑜と程普ていふ、魯粛らに3万の水軍を率いさせ、曹操を迎撃させました。

この軍勢は諸葛亮について劉備と合流し、赤壁において曹操軍を撃退することに成功します。

曹操は火計によって船団を焼き払われ、ほうほうの体で荊州北部に撤退しました。

かねてより曹操軍の内部では疫病が流行しており、多くの将兵が失われたので、諸葛亮が予測した通り、さらに北方の本拠地にまで撤退し、荊州から立ち去ります。

演義では十万本の矢を調達したり、呪術を用いて風を吹かせるなどしていましたが、正史においては、外交面の活躍のみが記載されています。

赤壁の戦い

荊州の統治にあたる

劉備と周瑜はそのまま荊州に進撃し、南郡を陥落させました。

これに続いて、劉備は荊州南部の四郡を攻め落とし、支配下に置きます。

そして諸葛亮を軍師中郎将ちゅうろうしょう(上級指揮官)に任命すると、零陵れいりょう桂陽けいよう長沙ちょうさの三郡の統治を任せました。

領土の大半を任せたわけですので、諸葛亮への信頼が厚かったことがうかがえます。

諸葛亮は臨烝りんじょうに居住して各地を治め、賦税を調達して軍事費にあてました。

このようにして、諸葛亮は劉備が健在の間は、戦略・外交・内政の面で活躍しています。

龐統が加わる

やがて劉備が荊州牧となって勢力を強めると、次に蜀を攻撃し、支配下に置く計画が持ち上がります。

この頃に、鳳雛こと龐統ほうとうもまた劉備に仕えるようになっており、この計画を主導しました。

龐統ははじめ、劉備に気に入られなかったのですが、諸葛亮がとりなしたことで、それが変わりました。

諸葛亮と龐統の一族は縁戚関係にあり、諸葛亮も龐統の才能を知っていたのでした。

劉備は諸葛亮を信頼していたので、この意見に耳を傾け、やがて軍師中郎将に任命し、諸葛亮に次ぐ待遇を与えます。

このようにして、諸葛亮は劉備陣営の人材を充実させるための活動も行っていたのでした。

馬良・馬謖ばしょくの兄弟もこの頃から劉備に仕えていますが、こちらも諸葛亮と縁戚があったと推測されています。

劉備が蜀への遠征を決意する

この時期、蜀は劉しょうが支配していましたが、北方の漢中を統治させていた張魯ちょうろに、反乱を起こされていました。

しかし劉璋は将軍たちをうまく統率できず、討伐できないでいます。

このため、まず劉備に張魯を討伐させることを名目にして、蜀に入れるようにします。

そして機会をみて、劉璋を攻撃して蜀を奪取する、というのが、劉備陣営の立てた計画でした。

もともとは、劉璋の配下である張松ちょうしょう法正ほうせいが計画し、それを龐統が推奨した、という形になっています。

張松や法正は、暗愚な劉璋では、この乱世の中で益州を保っていくことも、勢力を伸ばすこともできないだろうと考え、劉備を押し立てたいと考えるようになっていたのでした。

劉備は同族から土地を奪うことを渋っていましたが、龐統に説得され、結局は蜀に向かうことになります。

曹操に対抗するには、より勢力を拡大する必要があり、漢王朝を復興させる大義のためであれば、弱い者から土地を奪うのもやむを得ない、というのが龐統の主張でした。

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