諸葛亮孔明 漢王朝の復興を目指し、魏に戦いを挑んだ蜀の宰相

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荊州の抑えにまわるも、やがて蜀へと攻めこむ

この時に劉備は龐統や黄忠こうちゅう魏延ぎえんら、新参の臣下を引きつれて蜀におもむき、関羽や張飛、趙雲、そして諸葛亮を荊州に残していきました。

まだ荊州の統治が始まって間がなかったので、主力に拠点を固めさせておいたのでしょう。

そして212年になると、劉備は駐屯していた葭萌かぼうで挙兵し、劉璋への攻撃を開始します。

すると、荊州の部隊にも蜀を攻撃するようにと連絡が届いたので、諸葛亮は張飛や趙雲とともに、軍勢を率いて西に向かいました。

この結果、荊州には関羽のみが残る状況となります。

成都を包囲するも、龐統は戦死する

諸葛亮たちは手分けをして各地の郡県を平定し、蜀の攻略に貢献しました。

そして劉備とともに成都を包囲し、劉璋を追いつめます。

なお、これまでの過程で龐統が戦死しており、臥龍・鳳雛の一方は、早くも失われてしまいました。

劉備は龐統の死を惜しみ、父親を取り立てましたが、その辞令は諸葛亮が自ら授与しています。

軍師将軍となる

やがて劉璋が降伏すると、劉備は諸葛亮を軍師将軍・左将軍府事ふじに任命し、補佐役として重用します。

そして諸葛亮は、劉備が出征する際にはいつも成都の留守を守り、食糧や兵力を充足させることに努めました。

この頃には劉備・関羽・張飛・黄忠・馬超が健在で、軍事方面の人材が充実していました。

そして策謀は法正が担当したので、諸葛亮は統治者としてその才能を発揮し、後方から劉備軍の活動を支えています。

また、この頃には『蜀科しょくか』という法の制定を進め、統治の基盤を固めました。

皇帝になるように勧める

劉備はやがて曹操から漢中を奪取し、漢中王となります。

そして221年には、献帝が曹丕に帝位を奪われたことを受け、劉備が代わって漢の皇帝に即位するべきだという意見が強まっていきました。

劉備はこれをなかなか受けなかったのですが、諸葛亮は説得にかかります。

「昔、後漢の初めごろ、呉漢ごかん耿弇こうえんらが、世祖(光武帝)さまに、帝位につくようにお勧めしました。

しかし世祖さまが数度にわたって辞退すると、耿純こうじゅんは『天下の英雄は口をぱくぱくさせる魚のように、望みの物を手に入れることを期待しています。

もし、われわれの意見に従われないのであれば、士大夫したいふ(人材)はそれぞれに故郷に帰って主君を求め、あなたに従う者はいなくなるでしょう』と進言しました。

世祖は、耿純の忠言に深く感じ入り、ついに承諾されました。

ただいま、曹氏が漢朝を簒奪さんだつし、天下は主なき状態となっています。

大王さまは劉氏の末裔であられ、その血筋を受けておられるのですから、いま、帝位につかれるのは当然のことです。

士大夫が大王さまに従って、久しく苦しい勤めを果たしてきたのもまた、耿純の言葉通り、ほんのわずかな恩賞が欲しいからなのです」

このようにして、劉備が帝位につき、臣下たちにより多くの報償を与えようとしなければ、やがて臣下たちは去ってしまうと、諸葛亮は警告したのでした。

曹丕が帝位についたのに、劉備が帝位につかなければ、求心力が低下し、魏になびく者が増え、蜀の国力が低下するおそれがありました。

このため、劉備は帝位につかざるを得ない状況に置かれていたのです。

丞相に任命される

こうして劉備は蜀の皇帝に即位し、諸葛亮を丞相じょうしょう(首相)に任命しました。

その任命書は、次のようなものでした。

ちんは王家の苦難に遭遇し、大いなる皇統を継承した。

恐れと慎みを抱き、あえて心を平穏にすることもなく、民を安んじることを願っているが、それを実現できていないことを懸念している。

丞相諸葛亮よ、朕の意志を充分にくみとり、怠りなく朕に欠けたところを補佐し、重なる光輝をのべ、天下を照らし出すのを助けよ。

君よ、よくつとめてくれ」

諸葛亮は丞相の位をもって、録尚書事(皇帝の命令書を司る役目)も担当しました。

その上、仮節(軍の独自裁量権)を持ち、張飛が亡くなった後には司隷校尉をも兼任し、一身に重責を担うことになります。

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