諸葛亮孔明 漢王朝の復興を目指し、魏に戦いを挑んだ蜀の宰相

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屯田を開始する

一方で、兵士を分けて屯田を開始させ、長期間に渡って駐留するための基盤作りを行います。

諸葛亮は兵士たちを戒めたので、従来からの居住民と雑居しましたが、民は安心して暮らし、兵士たちが勝手なまねをすることはありませんでした。

こうして何度かの失敗をへて、諸葛亮は新しい体制で魏を攻略しようとします。

しかし諸葛亮には、それを実らせるために必要な時間が、残されていませんでした。

司馬懿は戦いに応じず

諸葛亮は五丈原に到着すると、たびたび司馬懿に戦いを挑みました。

これに対し、司馬懿も曹叡に上奏して強く合戦を望みましたが、こちらはそのふりをしていただけでした。

明帝は衛尉の辛毗しんぴせつ(命令権)を持たせてつかわし、司馬懿を抑えます。

これを聞くと、姜維は諸葛亮に対し、「辛佐治さじ(辛毗)が節を持ってきたからには、賊軍は出撃してこないでしょう」と言いました。

諸葛亮は「司馬懿には、はじめから戦う気がない。合戦を請うたのは、将兵たちに武勇があると見せかけるためだ。

将軍が軍の中にあるときは、君主の命令ですらも、受けないことがある。

もしも司馬懿がわしを制することができると思っているのなら、どうして千里のかなたへ合戦の許しを請うわけがあろうか」と述べ、司馬懿の本心を示しました。

司馬懿は先に諸葛亮に戦いを挑んで大敗を喫しており、このために積極的に戦う気はなかったのです。

諸葛亮には勝てないと認めたことにもなりますが、一方においては、食糧事情に不安を抱える蜀軍に対しては、持久戦に持ち込むのが、勝利を得る上で一番確実だったということでもありました。

諸葛亮は髪飾りと婦人の装飾品を贈ったりして挑発し、司馬懿を怒らせましたが、それでも司馬懿は動かず、戦いは発生しませんでした。

司馬懿が諸葛亮の死を予言する

ある時、諸葛亮の使者が司馬懿の元を訪れました。

すると司馬懿は諸葛亮の睡眠時間や食事の量、仕事の忙しさといったことについてたずね、軍事には触れませんでした。

使者が「諸葛公は朝早くに起き、夜遅くなってから寝床に入られます。

そして鞭打ち二十以上の刑は、すべて自ら執り行われています。

食事の量は、数升(二、三合)にもならないほどです」と答えます。

すると司馬懿は「諸葛亮は倒れるだろう。それでは長くもつはずがない」と言いました。

一日中働きづめであるのに、食が細っていると聞いて、諸葛亮の体が損なわれており、その寿命が長くないだろうと予測したのでした。

呉が動くも、撃退される

この年の6月、諸葛亮が動いたのに呼応して、孫権が陸遜らを率いて合肥がっぴ新城を攻撃しましたが、魏軍に撃退され、戦果をあげることはできませんでした。

このようにして、蜀と呉は同時期に魏を攻撃することがしばしばありましたが、いずれも防備を突き崩せず、領土を大きく奪い取ることはできないでいます。

一方で、魏は蜀と呉に東西から攻撃される上、たびたび国内で反乱が起きていましたので、その鎮圧にも労力を取られ、蜀や呉を討伐する余裕はありませんでした。

このような事情で、三国鼎立以後は、数十年に渡る停滞期が続くことになります。

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