諸葛亮孔明 漢王朝の復興を目指し、魏に戦いを挑んだ蜀の宰相

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劉禅の詔勅

劉禅は諸葛亮の死を受け、次のような詔勅を出しました。

「思うに、君は文武の才を兼ね備え、叡智と誠実さを明らかにし、先帝の遺勅を受けて孤児を預かり、朕の身を助けてくれた。

絶えかけた系譜と、衰えた国を復興し、その志は動乱を鎮めることにあった。

かくて六軍を整備し、出征しない年はなかった。

神のごとき武は明るく輝き、その威光は国の果てまでを鎮めた。

漢の末年において、まさに功績が樹立されようとし、伊尹いいん・周公(古代王朝の建国に貢献した人物)の巨大な勲功に加えられようとしていた。

しかしどうしたことか、事業を成し遂げる前に、病にかかって亡くなってしまった。

朕は悼む思いによって傷つき、心は張り裂けんばかりである。

徳を崇敬し、功を序列し、行いを記し、おくりなをするのは、将来にその名を輝かせ、書物に掲載して不朽にするためである。

今、使持節・左中郎将の杜瓊とけいを使者として、君に丞相・武郷候の印綬を贈り、忠武ちゅうぶ候と諡する。

霊魂があるのならば、この恩寵と栄誉を喜んでくれ。

ああ、哀しいかな、哀しいかな」

李厳が憤死し、廖立が嘆く

諸葛亮の死によって影響を受けた者たちの中には、かつて諸葛亮に処罰された者たちもいます。

追放されていた李厳は、諸葛亮の死を知ると、やがて発病して亡くなりました。

李厳は日頃から、諸葛亮はいずれ自分を復帰させてくれるだろうと期待していたのですが、後継者では無理だろうと悟り、痛憤して病気になってしまったのです。

また、かつて劉備の侍中(側近)だった廖立りょうりつは、蜀の群臣を中傷したために、李厳と同じように庶民に落とされ、辺境の汶山びんざん郡に流されていました。

彼もまた、諸葛亮の死を知ると涙を流して嘆き、「わしは結局、蛮民となってしまうのだろう」と述べます。

いずれも諸葛亮から罰せられた者たちでしたが、その死に際して恨みがましいことは述べず、むしろ復帰の可能性がなくなったことを嘆いたのです。

これは諸葛亮の処分が公正だったと、処分された者自身が認めていたことになります。

また一方で、真摯に反省をすれば、諸葛亮はいずれ地位を戻してくれるだろうと、期待されていたことを現してもいます。

この二人の挿話は、諸葛亮の刑罰の行使と、その後の取り扱いが的を得ていたことを示すものだとして、語られました。

諸葛亮の財産

諸葛亮はこれ以前に、劉禅に自分の財産について上表をしています。

「成都には桑が八百株、やせた田畑が十五けい(約70ヘクタール)ありますが、子弟の衣食には余裕があるほどです。

臣が外に出て任務にあたる時には、特別な調度も必要なく、我が身に必要な衣食は、ことごとく官からいただく者でまかなえています。

ですので、別に財産を作り、多くの利益を得たいとは思いません。

もし、臣が死ぬ日が訪れましても、内に余分に絹があったり、外に財産があったりして、陛下に負い目を持つようなことはありません」

そして死後に、この上表の通りだったことがわかり、諸葛亮は大きな権力を握っていながらも、私欲を満たすようなことには、一切それを用いなかったことがわかっています。

諸葛亮は、清廉さをも備えていたのでした。

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