司馬炎が称賛する
蜀の高官だった樊建は、滅亡後は晋に仕え、皇帝である司馬炎と、諸葛亮について話をしたことがありました。
司馬炎が、諸葛亮の統治の様子を質問をすると、樊建は「自分の悪い点を知らされれば必ず改め、過ちをそのままにすることはありませんでした。
そして賞罰に対する誠実さは、神明を感動させるに足りるほどでした」と答えます。
司馬炎がこれを聞くと「よきかな。
わしがこの人を手に入れ、補佐をさせていたならば、今日の苦労はなかっただろう」と述べました。
このようにして、諸葛亮は晋代になっても尊重され、諸葛亮の活動の記録が、詳しく残されることになったのでした。
『三国志』は晋代に陳寿が著述しましたが、陳寿は他に『諸葛亮集』という、諸葛亮が記した政務や軍務についての書簡をまとめた文集を、公務として作成しています。
その活動が認められたことからも、諸葛亮が晋からも高く評価されていたことがうかがえます。
こうして諸葛亮の名声が保たれ、その余波が後世に伝わり、現代にも継承されることになったのでした。
諸葛亮評
陳寿は諸葛亮を、次のように評しています。
「諸葛亮は国の統治を始めると、民を慰撫し、正しい規則を示し、無駄な官職を減らし、時制にあった政策を行い、誠実に心を開いて、公正な政治をしいた。
忠義を尽くし、時代に利益を与えた者は、仇であっても必ず賞を与え、法を犯し、職務怠慢な者は、親族であっても必ず罰した。
罪に服して反省の情を見せた者は、重罪人でも必ず許してやった。
言葉を巧みに飾り、ごまかそうとする者は、軽い罪でも必ず死刑にした。
善行は、どれほど小さなものでも賞しないことはなく、悪行は、ささいなことでも罰しないことはなかった。
あらゆる事柄に精通し、理の根本を探究し、名前と実質が一致するかを確かめ、嘘や偽りに惑わされることはなかった。
このため領土の人々は、みな彼を畏れ、敬愛した。
刑罰や政治が厳格だったのに恨む者がなかったのは、彼の心くばりが公平で、奨励や、戒めの基準が明確だったからである。
政治のなんたるかをわきまえた良才であり、管仲や蕭何のような、名宰相の仲間だと言える。
しかるに、連年、軍勢を動かしながら、成功を収めることができなかったのは、思うに、臨機応変の軍略は、その得意とするところではなかったからだろうか」
こうして陳寿は、最後に「臨機応変の軍略は、その得意とするところではなかったからだろうか」と書いたために、後世から誹謗を受けることになりました。
諸葛亮は、特に蜀においては完全無欠の人であったかのように扱われ、このために諸葛亮の欠点を指摘した陳寿は、私怨があったから諸葛亮を中傷したのだ、と言われるようになってしまったのです。
諸葛亮が人並み外れた英傑だったのは確かですが、魏を攻撃して成功しきれなかったのは事実であり、その原因が、前線において機略を駆使し、敵を翻弄するのが得意ではなかったところにあったとするのは、的確な指摘だと言えます。
にも関わらず、陳寿が非難を浴びたところに、冷徹に人を評さなければならない、史家のありようの困難さが示されています。
一方において、魏への攻撃が成功しなかったのは、諸葛亮個人だけの責任とも言い切れず、蜀という国の規模が小さく、十分な軍事力と人材が得られにくかったことに、その根本の原因があったことにも、留意すべきだと思われます。
ところで、諸葛亮はその卓越した能力が称賛されることが多いのですが、ただ優れているだけの人物であれば、長い歴史の中では、数多く存在しており、特別に珍しいわけではありません。
諸葛亮がその中で際立ち、高い名声を得たのは、劉備の志を受け継ぎ、その死後にも忠誠を尽くして劉禅を守り、漢の復興という大義のために、自らの全てを捧げ尽くした誠実な態度にこそ、その要因があるのだと思われます。
そのあたりが、諸葛亮が人々から特別な敬愛を受け、晋の時代においても、称賛された理由となったのでしょう。
諸葛亮のたたずまいには、時代を超えて人の心を打つものがあるようです。