水魚の交わり
諸葛亮と劉備の交情は日に日に深まっていきましたが、するとそれまでの側近だった関羽や張飛は妬むようになったのか、これを喜びませんでした。
このため、劉備は「わしに孔明が必要なのは、魚にとって水が必要なようなものだ。
諸君らはもう二度と、同じ事を言わないでほしい」と告げます。
すると関羽と張飛は、それ以上は何も言わなくなりました。
これが「水魚の交わり」という言葉の語源になっています。
劉琦に相談を受ける
この頃、諸葛亮の器量を高く評価していた人物には、劉琦もいました。
劉琦は荊州の支配者である、劉表の長男です。
しかし劉表は後妻の影響を受け、末子の劉琮を愛し、劉琦を疎んじるようになっていました。
このため、劉琦は自分の身の安全について、諸葛亮に相談しようとします。
高殿で助言をする
諸葛亮は劉琦に相談を持ちかけられそうになっても、それを拒否していました。
おそらくは、荊州の後継者争いに巻き込まれ、害を受けることを警戒していたのでしょう。
このため、劉琦は諸葛亮を連れて裏庭を散策し、ともに高殿に登って、そこで宴を開きました。
そして劉琦ははしごを取り外させてから、諸葛亮に言います。
「いまはこうして、上は天に至らず、下は地面に至らない状況です。
あなたの口から出た言葉は、私の耳にしか入りません。
何か話していただけないでしょうか」
すると諸葛亮は答えます。
「あなたは、申生が国内に留まったために危険な目にあい、重耳が国外に出て安全だったことを、ご存知ありませんか?」
諸葛亮はここで、劉琦と似た立場に置かれた、歴史上の公子たちの事例をあげ、劉表の元を離れることを勧めたのでした。
劉琦はこの言葉を聞いて悟るところがあり、密かに襄陽から離れるための計画を立てるようになります。
そしてちょうどこの頃、江夏太守の黄祖が死亡したので、劉琦は彼に代わってその地位につき、難を逃れることができました。
このことが、後に劉備の活動にも、大きく影響してきます。
曹操が荊州に侵攻する
208年になると、曹操が大軍を動員し、荊州に攻めこんできました。
するとそのさなかに、かねてより病にかかっていた劉表が死去します。
後を継いだ劉琮は臣下に説得され、曹操に抵抗することなく、降伏することを決定しました。
前線で曹操に備えていた劉備には何の相談もなく、事後報告を受けることになります。
このため、劉備は大変に腹を立てますが、やむなく襄陽を通って荊州の南部に撤退することにします。
この時、諸葛亮は劉琮を攻撃し、荊州を手に入れることを勧めました。
しかし劉備は、劉表からは上客として迎えてもらった恩があるので、それは忍びないと言い、同意しませんでした。
長坂の戦い
その後、荊州の10万もの人々が劉備に同行することを望んだため、劉備の行軍は、遅々として進まない状態になります。
このため、長坂で曹操に追いつかれ、劉備は諸葛亮や張飛・趙雲ら、側近だけを連れて逃亡しました。
張飛の活躍によって、曹操の追撃をなんとか振り切ると、やがて江夏から出撃していた、劉琦が率いる1万の兵と出会い、合流します。
このようにして、諸葛亮が劉琦に勧めた行動が、劉備を助けることになりました。
そして劉備たちは夏口へと移動し、そこを拠点として曹操への抵抗を続けます。
徐庶が去る
しかしこの逃避行のさなかに、徐庶の母が曹操軍の捕虜となってしまいました。
このため、徐庶は劉備に別れを告げることにし、自分の胸をさして次のように言います。
「もとより、将軍とともに王霸の業を行うつもりでいたのは、この方寸の地(心臓)においてでした。
いま、すでに老母を失い、この方寸は乱れています。
事を行おうにも、無益なこととなるでしょう。
これでお別れしたいと思います」
こうして徐庶は劉備の元を去り、諸葛亮と別れ、曹操に仕えるようになりました。
徐庶は、魏ではさほどの官位を得られなかったことから、諸葛亮は後に「徐庶がその程度にしか用いられていないのか」と言って嘆いています。
この頃には、魏の体制はだいぶ固まってきていましたので、劉備と親しくしていた前歴があり、新参だった徐庶が出世をするのは、容易ではなかったのかもしれません。
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