人材の登用を進める
一方で、諸葛亮は若手の中から優れた人材を見いだし、その登用を進めていきました。
中でも蒋琬を取り立てて留府長史とし、「彼は忠義と公正であることを心がけており、わしと共に王業を支えるべき人物だ」と高く評価します。
また費禕には、自分の車に同乗させるという特別待遇をし、将来の蜀を担う人材として期待をかけました。
それ以外には、費禕の友人である董允を劉禅の侍中に任命してお目付役にし、宮中が乱れないようにと配慮しています。
彼らはいずれも、諸葛亮の死後に蜀を支える人材となっています。
その他には、事務処理に長けた楊儀を、軍務における副官とし、精力的に政務をこなせる張裔を重用するなどして、幅広く登用を行いました。
自他を戒める
諸葛亮は丞相になってから、部下の役人たちに命令書を出し、次のように戒めています。
「公務に携わる者は、人々の意見を参考にし、よく考えを巡らせ、主君の利益になるように務めなければならない。
もしもわずかな不満によって人を遠ざけ、意見が異なる者を非難して、検討しなおすことを厭うなら、仕事に欠陥を生じ、損失を招くことだろう。
異なる意見を検討しなおして、適切な施策に至るのであれば、それはやぶれた草履を捨て、珠玉を手に入れるようなものである。
人は苦心しても、なかなか思う通りには力を尽くせない。
ただ徐元直(徐庶)だけは、こうしたことに対処して惑わなかった。
また董幼宰(董和)は職務に携わること七年、仕事の上で至らぬ点があれば、何度も考え直し、相談にやってきた。
(董和は董允の父親で、諸葛亮に信頼された官吏です)
もしも元直と幼宰の勤勉な態度を慕い、国家に忠誠を尽くすことができるなら、私もまた、過失を少なくすることができるだろう」
諸葛亮はこのように戒め、自分にも部下にも、広く意見を聞き、周到に物事を考えてから施策を行うように求めたのでした。
頂点に立つ者がこのような態度だったため、諸葛亮の統治は善政として称えられることになります。
南征を行う
この頃、益州の南部では雍闓や高定らが反乱を起こし、蜀に従わない状況となっていました。
なので諸葛亮はまず、こちらを討伐して国力を増大させることにします。
この時、側近の王連が諸葛亮を強く引き留めたので、実施がのびのびとなりました。
南方には風土病もあり、万が一諸葛亮がそれに罹患し、失われることを恐れ、王連は諫めたのでした。
しかし諸葛亮は今の蜀には、自分以上に軍を率いて戦える能力がある者はいないと考えており、やがて225年になると、南征を実施します。
半年ほどで討伐が完了する
諸葛亮は春のうちに出陣しましたが、秋には遠征を終え、半年ほどで南方を支配下に置きました。
諸葛亮はこの時、南部で人々から敬意を集めていた孟獲という者を七度釈放し、七度捕らえます。
さらに釈放しようとすると、孟獲は「公は天のご威光をお持ちです。われら南人は二度と反乱を起こさないでしょう」と述べ、諸葛亮に心服しました。
この遠征は大きな成果をあげ、南方にある鉄や塩などの豊かな物産が蜀のものとなり、軍事費が増大します。
このようにして、諸葛亮は軍の指揮官としても優れた能力を持っていました。
こうして体制を整えた諸葛亮は、いよいよ魏の討伐、いわゆる「北伐」の準備にとりかかります。
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