泣いて馬謖を斬る
諸葛亮は馬謖に責任を取らせ、漢中に戻ってから処刑します。
馬謖の能力を惜しむ声もありましたが、命令違反をしたあげくに作戦を失敗に導いてしまったのですから、その責任は大きくなりました。
さらには追求を恐れてか、逃亡をはかったという話もあり、これによって諸葛亮は、馬謖をかばいきれなくなったのだと思われます。
親しくし、目をかけていた者をやむなく斬り捨てたところから、「泣いて馬謖を斬る」の語源となっています。
この時に馬謖は、「明公は私をわが子のように扱われ、私は明公を父のように思ってきました。
どうか舜が鯀を殺害して、その子である禹を取り立てた故事をお考え下さい。
(古代の王が、父の罪にもかかわらず、有能な人材を取り立てた故事に触れ、父である自分に罪があっても、子どもまで罰しないでほしいと述べています)
平素の交わりを損なわないようにしてくだされば、私は死んで冥土にあっても、何の心残りもありません」と諸葛亮に告げました。
これを受け、諸葛亮は馬謖を処刑したものの、残された家族の待遇は、以前と変わらないものにしています。
自ら降格を望む
そして諸葛亮は、人選を誤ったことを将兵たちに謝罪し、次のように上奏しました。
「臣は才能が乏しいのに、みだりに地位をかすめ取り、三軍を指揮いたしました。
しかし訓令を施し、軍法を明らかにすることができず、事にのぞんでおじけづき、街亭では命令に背かれるという失敗をしました。
そして箕谷では戒めが不足したため、失策を犯すことにもなりました。
その責任は、みな臣の任命に、方針が無かったことにあります。
臣には人の能力を見分ける明哲さがなく、事態に対処するにあたり、闇にとらわれ、物事がはっきりと見えていませんでした。
『春秋』(史書)では、責めは総司令官にあるとしており、臣の職務はこれに該当いたします。
どうか位を三階級下げ、責任をただしてください」
諸葛亮は公平に刑罰を下すことで知られ、そのために人々から信頼されていましたが、それは自分に対しても同じでした。
この結果、諸葛亮は右将軍に降格となります。
しかし丞相の事務を執り行ない続けることになり、統括する職務は以前と同じでした。
王平と姜維が立身する
他の将軍たちもほとんどが処分を受けましたが、馬謖を諫め、敗軍をまとめて痛手を軽減した王平だけは、評価されて昇進します。
王平はこれをきっかけにして立身を重ね、後に蜀の北方を担当する、方面司令官の地位についています。
また、諸葛亮は降伏してきた姜維の才能を高く評価し、将軍に取り立て、爵位も与えるという厚遇を施しました。
やがて護軍として自分の側に置くようになり、将来の蜀軍を支える人材として期待をかけます。
このようにして、失われる人材がある一方で、新たに見いだされた人材もあったのでした。
二度目の北伐
こうして諸葛亮は失敗をしましたが、蜀が漢王朝を復興させるために存在している国であることも、それを率いるのが諸葛亮であることも、変わりはありませんでした。
この年のうちに、呉の陸遜が、石亭で魏の将軍・曹休を打ち破ったため、魏軍は東に重点を置くようになり、関中(西方)が弱体化した、という情報が届きます。
このため、諸葛亮は11月に上奏をして準備を整え、冬のうちに再度出撃しました。
諸葛亮はこの時、散関から出撃し、陳倉を包囲します。
しかし曹真がこれを堅く守らせたので攻め落とせず、やがて食糧が尽きたので撤退しました。
曹真は、諸葛亮は祁山を攻めて失敗した以上、次は陳倉を攻めてくるだろうと予測し、あらかじめ防備を固めていたのでした。
曹真も、なかなか優れた将軍だったのだと言えます。
撤退の際に、魏の将軍・王双が騎兵隊を率いて追撃をかけてきましたが、諸葛亮はこれと戦って打ち破り、王双を討ち取りました。
この結果からして、諸葛亮は迎撃戦を得意としていたことがうかがえます。
【次のページに続く▼】