呉におもむく
この頃、呉の重臣である魯粛が荊州を訪れ、情勢を探っていました。
そして劉備の元を訪れ、呉と同盟を結んで曹操に対抗することを勧めます。
諸葛亮も、元より同じ考えでしたので、「事態は急を告げています。
ご命令をいただき、孫将軍(孫権)に救援を求めたいと思います」と劉備に述べ、魯粛とともに呉に向かいました。
こうして諸葛亮は、本格的に表舞台に登場することとなります。
孫権を説得する
この時、孫権は柴桑に駐屯し、荊州の情勢を探り、勝敗の行方をうかがっていました。
そして曹操に降伏したものか、抗戦したものか、迷いを抱えていました。
諸葛亮は孫権を説得するため、面会をすると、次のように述べます。
「天下はおおいに乱れ、将軍(孫権)は挙兵して江東を所有されました。
劉豫州(劉備)もまた漢水の南方で軍勢をおさめ、曹操と並んで天下を争っておられます。
いま曹操は、異民族を討伐し、大敵を退け、ほぼ平定を終えています。
さらに荊州を破ったことで、その威勢は国中を震わせています。
英雄も武力を用いる余地がなく、ゆえに劉豫州は遁走してここに至りました。
将軍よ、あなたもご自分の力量をはかった上で、この事態に対処なされませ。
もしも呉・越の軍勢をもって中国に対抗できるのなら、なるべく早いうちに、国交を断絶なさった方がよいでしょう。
もしも対抗できないのであれば、兵器や甲冑を束ね、臣下の礼をとって服従なさるとよろしいでしょう。
いま将軍は、外に向けては服従の名義を頼りつつも、内に向けては引き延ばしの計をとっておられます。
事態が急迫しているのに、決断を下されないのであれば、間もなく災禍が降りかかるでしょう」
孫権の質問と答え
孫権はこれに対し「もし君の言うとおりならば、どうして劉豫州は曹操に降伏しないのだ?」とたずねました。
諸葛亮は「田横は斉の壮士にすぎなかったのに、義を守って屈辱を受けませんでした。
まして劉豫州は王室の後裔であり、その英才は世を覆っています。
多くの士が仰ぎ慕うのは、水が海に注ぎ込むようなものです。
もしも事が成就しないのであれば、それは天命なのです。
どうして曹操の下につくことなどできましょう」と答えました。
対抗策を語る
孫権はこれを聞くと、にわかに立ちあがり、「わしは呉の土地を全てと、10万の兵を持ちながら、人に従うわけにはいかない。
わしの決断はついた。
劉豫州以外に曹操に対抗できる者はいないが、しかし曹操に敗れたばかりだ。
この後、どのようにしてこの難局にあたるのだ」と言いました。
諸葛亮は次のように答えます。
「劉豫州の軍勢は長坂で敗北したと言っても、現在、逃げ戻った兵と、関羽が率いる水軍の精鋭が、合わせて1万人います。
そして劉琦が江夏の軍兵を集めれば、これもまた1万をくだりません。
一方で、曹操の軍勢は、はるか遠くからやってきたので、疲弊しています。
聞くところによると、劉豫州を追って、軽騎兵が一昼夜、三百里(120km)以上も駆け抜けたとのこと。
これはいわゆる『強弓に射られた矢も、やがては勢いが衰え、魯で作られる薄絹さえ貫けない』にあたる事態です。
ゆえに兵法ではこれを嫌い、『必ず上将軍(前衛の将軍)は倒される』と述べています。
それに加え、北方の人間は水戦には習熟していません。
また、荊州の民が曹操についているのは、兵の勢いに圧迫されたからで、心服しているわけではありません。
いま、将軍が猛将に命じて数万の兵を統率させ、劉豫州と力を合わせることができれば、曹操の軍勢を必ず撃破できます。
曹操軍は敗北したならば、必ず北方へ帰還するでしょう。
そうなれば、荊・呉の勢力が強大になり、鼎立(三つの軸ができた状態)が形成されます。
成功と失敗の分かれ目は、今日にあります」
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