姜維たちが降伏する
一方、成都が陥落したものの、剣閣の蜀軍はまだ健在でした。
姜維たちは成都が落ちたらしい、という噂を聞いて情報を集めていましたが、そこに劉禅からの使者がやって来て、降伏を命じられます。
このために姜維たちは、やむなく鐘会に降伏することにしますが、自分たちはまだ戦えるのに後方が崩れてしまったことに憤り、剣で岩をたたき割り、その気持ちを表現しました。
姜維らは涪に移動し、武装解除をして鐘会の監督下に入ります。
ですが、姜維はまだ蜀のことを、あきらめてはいませんでした。
洛陽に移ることになるも、騒動が巻き起こる
やがて劉禅は、魏の都である洛陽に移ることになりますが、それまでの間は、元の通りに成都の宮殿で暮らしていました。
そして鄧艾もそこに住み、戦後処理と、引き続き呉にも遠征することを、朝廷に提案するなどしています。
しかし、蜀の討伐を成功させた鄧艾は、やがて驕り高ぶるようになり、周囲から反感を買うようになりました。
そして鄧艾を邪魔者だと思っていた鐘会が主導し、朝廷に「鄧艾が反乱を起こそうとしている」と讒言し、罪を着させます。
このために鄧艾は逮捕され、都へと護送されることになりました。
このように、魏軍も一枚岩ではなく、将軍たちの野心から生じる軋轢によって、大きな騒動が起きることになります。
鐘会が姜維とともに反乱を起こす
これ以前から、鐘会と姜維は関係を深めており、やがて姜維は鐘会に、反乱をそそのかすようになりました。
鐘会は大きな手柄をいくつも立てていましたが、司馬一族が支配するようになっている魏では、いつか邪魔者として始末されてしまう可能性が高いと指摘し、それよりも蜀で独立してはどうかと勧めたのでした。
鐘会もやがてその気になり、うまくいけば天下の主になれるし、悪くても劉備のように地方で独立割拠できるだろう、と考えます。
しかし、姜維は鐘会を王にするために動いていたわけではなく、鐘会を焚きつけて魏軍を分裂させ、その上で鐘会を討ち、蜀を復活させようと計画していたのでした。
そして劉禅に密書を送り「願わくば、陛下には数日の屈辱をお忍びください。
臣は危機に瀕した社稷を再び安んじ、光を失った日月を明るくするつもりです」と告げました。
反乱が失敗に終わり、姜維が討たれる
鐘会は成都に入ると、自分に逆らう将兵たちを捕縛して閉じ込め、姜維を将軍に任命して反乱を起こします。
しかし、やがて閉じ込めた者たちに脱出され、攻撃を受ける状況になりました。
姜維は自ら剣をふるって戦いますが、力尽きて討たれ、蜀を復活させる計画は失敗に終わります。
この時の兵乱で、劉禅の皇太子だった劉璿や、将軍の張翼もまた、殺害されてしまいました。
忠義によって行ったことでしたが、結果的には、姜維はいたずらに事態を混乱させ、死者を増やしてしまったのでした。
洛陽に出発する
劉禅はこうした状況下で、洛陽に向けて出発しましたが、混乱が続いていたので、蜀の大臣の中で劉禅に随行した者は、誰もいませんでした。
あるいは、劉禅のふるまいに嫌気がさし、これ以上は補佐をする気持ちがなくなっていたのかもしれません。
この状況を見かねて、秘書令の郤正が妻子を蜀に残し、劉禅に随行しています。
郤正は先に鄧艾への降伏文書を書いた人物でもあり、以後は劉禅が大きな失敗をしないように、側近として力を尽くしました。
ちなみに、黄皓は魏に賄賂を贈って、国を誤らせた罪に問われることを逃れ、生きながらえたようです。
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