劉禅は降伏を選択するも、子に反対される
劉禅はこの結果、譙周の意見を採用することに決め、鄧艾に降伏を申し入れることにしました。
すると劉禅の五男で、北地王の劉諶が猛反対をします。
「もし道が窮まり、力に屈し、敗北が必至になったのであれば、父子と君臣は、城を背にして一戦を交えるべきです。
ともに国家のために死に、先帝(劉備)にお会いしましょう」
このように、決死の覚悟で訴えました。
降伏すれば漢の社稷が絶えることになりますが、それを戦いもせずに受け入れてはならないと、劉諶は考えていたのです。
しかし劉禅はこれを取り上げず、そのまま降伏を申し入れました。
するとその日のうちに、劉諶は劉備の廟に詣で、そこで慟哭し、妻子を殺害してから自殺します。
こうして劉禅の子のうちのひとりは、国に殉じて世を去りました。
降伏を申し入れる
劉禅はこのような事態になっても考えを変えることなく、鄧艾に降伏を申し入れる文書を送っています。
「長江と漢水に隔てられ、深遠な運命に遭遇し、蜀との縁を築いてきました。
そして国の一隅に割拠し、天運を冒して居座り、しばらく年を経て、ついに都と一万里を隔てたままになりました。
いつも思うことは、黄初の間(220-226年)に、文皇帝(曹丕)が虎牙将軍の鮮于輔に命じられ、内密に詔を下され、三つの好条件が示されるという恩寵を受けたことがありました。
そのようにして、門戸が開かれていました。
大義は明らかでしたが、徳がなく、暗弱な私は、先代の遺産をむさぼり、むなしく年を重ね、大いなるご教示に従おうとはしませんでした。
天威が既にふるわれており、人も鬼神もみな、優れた人に帰順するのが定めです。
私は王者の軍勢に対し、恐れおののいており、神の武威が示された場所に、態度を改めてうかがい、ご命令に従わずにはいられません。
すぐに将軍たちに、戈を投げ出し、鎧を脱ぐようにと命じ、官庁や倉庫に対しては、何一つとして損なうことがないように努めよ、と命じています。
民衆が野におり、余った食糧は田畑にありますが、後に施される恩恵を待ち望み、民の生命を守って下さるものと信じています。
伏して考えますに、偉大なる魏は恩徳と教化を施し、伊尹や周公旦のような賢者を宰相にし、寛大な心で、誤りがあった者たちを受け入れておられます。
謹んで侍中の張紹、光禄大夫の譙周、駙馬都尉の鄧良に、印綬を奉じさせ、ご命令を請う所存です。
そして敬意と忠義を示させていただきます。
この身の存亡は、裁きのままに従います。
柩を背にしてお側近くにおりますので、これ以上は、細々とは申し上げません」
こうして、蜀の滅亡が確定します。
鄧艾と会見する
鄧艾は文書を受け取ると大変に喜び、さっそく返書を送ってきました。
そして鄧艾が成都の北にまでやってくると、劉禅は背中に柩を背負って自らを縛り、軍営の門のところにまで出向きました。
すると鄧艾は縄をといて柩を焼き、招き入れて会見します。
鄧艾は与えられた専断権を用い、劉禅を驃騎将軍に任命し、魏の序列の中に組み込みました。
こうして劉禅は、皇帝の地位を失います。
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