劉曄 漢王室の血を引きながら、魏の重臣となった智者の生涯

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劉備を攻撃することを進言する

この頃は、劉備が蜀を劉璋から奪い、勢力を大きく伸ばしつつある時期でした。

しかしまだ蜀の情勢は安定していなかったので、劉曄は漢中に続けて蜀を攻撃することを曹操に勧めます。

「明公は歩兵五千で董卓の討伐に挑まれ、北方では袁紹を撃破し、南方では劉表を征討されました。

この国の九つの州と百の郡のうち、八割まで併合されています。

御威光は天下に響き渡り、威勢は国外にも影響を及ぼしています。

いま、漢中を攻め落とされましたが、蜀の民はその噂に肝をつぶし、落ち着きを失っています。

このまま進撃をすれば、蜀に布告を回すだけで平定できるでしょう。

劉備は傑物ではありますが、度量はあっても決断が遅く、蜀を手に入れたばかりですので、民はまだなついていません。

漢中の陥落によって蜀の民は恐れを抱いており、自分から倒れかかっている状態になっています。

明公の神のごときご威光をもって、倒れかかっているところに圧力をかけてこれを押しつぶせば、必ず勝利できるでしょう。

少しでも時を与えますと、政治に明るい諸葛亮が丞相じょうしょうの役割を果たすようになり、蜀の人心を安定させるでしょう。

そして関羽や張飛は優れた武勇によって、要害の地を根拠として防備を固めてしまいます。

そうなると、もはや攻略するのは困難です。

いま奪い取ってしまわなければ、必ず後の災いになりましょう」

しかし曹操はこれを採用せず、そのまま引き上げています。

すると劉曄の予測通り、劉備は蜀の支配を固め、曹操が守備に残した部隊を打ち破り、漢中をも奪取してしまいました。

曹操は自ら劉備を討伐しようとしましたが、劉備は漢中の要害にたてこもって固く守ったので、これを打倒することができず、蜀漢の成立を許す結果を招きます。

この結果、曹操は大陸の統一を果たせぬまま、その生涯を終えることになりました。

劉曄の進言通りにしていれば、三国時代は訪れなかったかもしれません。

劉曄は帰還後、張魯攻撃を進言した功績が認められたようで、行軍長史こうぐんちょうし領軍りょうぐんという、諸軍を取り仕切る地位についています。

孟達を用いることに反対する

220年になると、蜀の将軍・孟達もうたつが手勢を率いて魏に降伏してきました。

文帝(曹)は孟達の才能を高く評価して寵愛し、やがて新城の太守に取り立て、散騎常侍さんきじょうじの官位も加えます。

これに対し劉曄は、「孟達は一時の利益を求めて魏に帰属したに過ぎず、自らの才能を頼り、策をろうする傾向にあります。

このため、恩寵をありがたく受け止め、道義を守ることはできないでしょう。

新城は呉・蜀と境界を接する重要な拠点ですので、もしも孟達が態度をひるがえせば、国家にとって災いになります」と主張しました。

しかし文帝は、孟達の待遇を変更しませんでした。

やがて孟達は劉曄が予測した通り、蜀に通じて裏切りを図るという事件を引き起こし、司馬懿しばいに討伐されます。

劉備の出兵を予測する

やがて劉曄は侍中じちゅう(皇帝の側近)に取り立てられ、関内侯かんだいこうの爵位を授けられました。

この頃、文帝は劉備が関羽の復讐のために、呉に攻め込むかどうかを気にかけていました。

このため、臣下たちに事態の変化を予測をするようにと命じます。

すると「蜀は小国であるにすぎず、名将と呼べるのは関羽だけです。

その関羽は死に、軍勢は打ち破られ、国内は不安と恐怖に満ちていることでしょう。

二度と出撃することはないと思われます」という意見が主流となります。

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