劉曄 漢王室の血を引きながら、魏の重臣となった智者の生涯

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明帝にも仕える

226年に文帝が亡くなると、かわって明帝(曹えい)が即位しました。

劉曄はこの時に東亭とうてい候に爵位が進められ、三百戸の領地が与えられます。

この頃に劉曄は明帝から、祖先をどこまで祀るべきかという問題についての諮問を受け、回答しました。

このときの意見は採用されたと記録されています。

公孫淵の謀反を予測する

228年になると、公孫淵こうそんえんが叔父の位を奪い、勝手に遼東りょうとうの太守になるという事件を起こしました。

そして魏の朝廷に使者を送り、事情を釈明してきます。

この時に劉曄は、次のような考えを抱いていました。

公孫氏は漢の時代に起用され、代々その地位を受け継いで来た。

水路は海で、陸路は山に阻まれているため、遼東は蛮族が住む遠い地となり、制御しづらくなった。

このため、公孫氏は半ば独立した勢力を築き、権力を握って長い年月を過ごしてきている。

いま処罰をしなければ、いずれ必ず災いをもたらすことになるだろう。

もしも公孫淵が裏切る気持ちを抱き、軍事力をたくわえてから始めて討伐をしようとすると、厄介な事態になる。

彼が自立したばかりで、反対する者や敵対者がいるうちに、先手をうって不意に襲撃し、兵力を投入し、恩賞を設けて降伏を誘えば、さほどの軍事力を用いずとも討伐できるだろう。

この時、魏は公孫淵に将軍位を与え、その立場を承認します。

しかし公孫淵は呉とも勝手に外交を行うようになり、魏に心から従う気持ちは持っていませんでした。

そして237年になると、ついにはっきりと自立を宣言し、司馬懿の討伐を受けることになります。

このように、劉曄は一貫してあらゆる事態に対し、的確な見通しを持っていたのでした。

しかし不思議と、その意見が採用されることは少なかったようです。

人付き合いをしない理由

劉曄は朝廷において、ほとんど人付き合いをしませんでした。

ある人がその理由をたずねると、劉曄は答えます。

「魏の王室は帝位につかれて、まだ日が浅い。

知恵のある者は天命をわきまえているが、俗人たちがすべて納得しているわけではない。

私は漢の時代には王族のはしくれでありながら、魏の時代にも皇帝の腹心の地位にいる。

仲間が少ないのは、道理にかなう状態なのだ」

旧王室に連なる劉曄が勢力を築くと、漢王朝の復興を望むものが、劉曄を担ぎ上げて魏への反乱を起こそうと、考えないとも限りません。

劉曄は揚州にいた時代に、独自の勢力を築く機会を自ら放棄していることからもわかるように、すでに漢の時代は終わったと考えており、そのような事態は望んでいなかったのでした。

このため、努めて私党が作られることがないようにと、気を配っていたのだと思われます。

劉曄の意見が採用されることが少なかったのは、仲間がいなかったので採用を推奨する者がおらず、当人も強く主張することがなかったからだと思われます。

やがて逝去する

232年になると病にかかったので、太中大夫たいちゅうたいふ(皇帝の顧問官)に任命されました。

そして大鴻臚だいこうろになりましたが、二年ほど勤めてから職を譲り、また太中大夫に戻ってから逝去しています。

景候と諡をされました。

子の劉が後をついでいます。

末子の劉とうは優れた才能を備えていましたが、父よりも品行が劣っていました。

このため、官位は平原太守にとどまっています。

劉曄評

三国志の著者・陳寿は劉曄を次のように評しています。

「劉曄は策謀の才に優れた奇士だった。

清潔さや徳業においては荀攸じゅんゆうと異なるが、策謀においては同等だった」

劉曄は漢の王族でありながら、次代の魏においても重臣になっており、奇特な道を歩みました。

それほどに才能が優れており、また時代の変化に逆らわなかった人物だったと言えます。

一方で、控えめに世渡りをしたことから、その才能を真に発揮しきれてはおらず、もしも彼が漢の王族の出でなかったら、あるいは諸葛亮や陸遜のように、国を代表する人物になっていたかもしれません。