姜維に段谷で勝利する
それからしばらく時間が過ぎると、やがて姜維が予測した通りに侵攻してきました。
そして祁山に向かってきたのですが、鄧艾がすでに備えをしていたので、南安へと転進していきます。
これに対し、鄧艾は武城山に立てこもって対峙しました。
すると姜維は、要害の地を抑えようとして鄧艾と争いますが、勝利できませんでした。
このため、渭水を渡って東進し、山に沿って上邽へと向かいます。
姜維はそこで友軍の胡済と合流するはずだったのですが、やってこなかったので、戦力が乏しい状態になりました。
鄧艾はその機をいかし、姜維の軍勢と段谷で戦い、大きな打撃を与えて勝利します。
鄧艾が述べていた通り、魏軍はこの時、戦備が整っておらず、数でも蜀軍に劣っていました。
にも関わらず勝利したことから、鄧艾の将器が非常に優れていたことが証明されています。
詔勅によって称賛される
この年のうちに、次のような詔勅が下されました。
「逆賊である姜維が、毎年のように狡猾なふるまいをしたので、民も蛮族も動揺し、西方は不安定な状態になっていた。鄧艾は的確な計略を用い、忠義と勇気をふるい、数十の将を斬り、数千の首をとった。
その勢威は巴蜀の地をふるわせ、武勇への称賛は長江や岷江にも鳴り響いた。いま、鄧艾を鎮西将軍・都督隴右諸軍事に任命する。鄧候に爵位を進め、五百戸を割いて子の忠を亭候とする」
このようにして、鄧艾は絶賛され、その地位がますます高まったのでした。
一方で、姜維は大敗の責任を取り、大将軍から後将軍に地位が下がっています。
鄧艾は大きな壁として、姜維の前に立ちはだかったのでした。
さらに昇進する
二五七年になると、魏の征東将軍である諸葛誕が、東方で反乱を起こします。
諸葛誕は呉に臣従を申し入れ、援軍を得たので、大きな勢力となりました。
このため、司馬昭(司馬懿の次男)は自ら二十六万の大軍を率いて討伐にあたりますが、西方から兵を引き抜いたので、こちらが手薄になります。
このころには、司馬師はすでに病死していたので、かわって司馬昭が魏の実権を握っています。
この状況を知った姜維は、前年に大敗したばかりなのに、またしても侵攻してきました。
この時、西方では長城という拠点に食糧が備蓄されていたのですが、人々はここを姜維に奪われたら、大きな災いになるだろうと恐れます。
このため、鄧艾は大将軍の司馬望とともに長城に入り、守りを固めました。
姜維が付近にまでやってきますが、鄧艾たちは守備に徹し、戦いには応じませんでした。
そして二五八年になると、諸葛誕が討伐され、反乱が鎮圧されます。
これを受け、姜維が撤退したので、鄧艾は西方を守り通すことができました。
この結果、鄧艾は征西将軍に昇進し、前後に加増された分を合わせて、領地が六千六百戸にもなります。
そして二六二年には、姜維と戦って再び勝利しました。
蜀への攻撃が始まる
二六三年になると、魏は蜀に侵攻する計画を立てます。
このころ、姜維は前線である沓中に滞陣し続け、帰国することがなくなっていました。
蜀では黄皓という宦官が権力を握るようになり、政治が壟断されるようになっています。
黄皓は私腹を肥やし、権力を握りたいだけの人間で、政治のことも軍事のこともまるで理解しておらず、このために蜀の国勢が傾き始めます。
姜維は黄皓を除こうとして劉禅に直訴しますが、劉禅はことの深刻さを理解しておらず、これを受け入れませんでした。
この結果を受け、姜維は宮中から加えられるであろう害を避けるために、蜀に戻らなくなっていたのです。
これを知った魏の人々は、蜀は姜維だけが頼みなのに、その彼が帰国しないのは、国内に変事が起きているからなのだろう、と推測しました。
また、蜀は毎年のように魏に攻撃をしかけていましたが、このために国内が疲弊しているだろう、とも予測されます。
この結果、司馬昭は二十万ほどの軍勢を動員し、蜀を攻略させることにしました。
鄧艾はこの攻勢において、一軍を率いて参加することになります。
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