地位が高まる
やがて涼州で、韓遂と馬超が反乱を起こします。
すると弘農や馮翊などで、多くの県や邑がこれに呼応しました。
河東は賊の支配地域と接していましたが、民の中にこれに応じようとする者はいませんでした。
曹操が征西して蒲阪に至ると、賊と渭水を挟んで対峙します。
この時、軍の食糧は河東がすべて供給しました。
それから韓遂らを撃破しましたが、なおも二十万石以上も食糧が余ります。
これを受け、曹操は「孔子は『禹には非の打ち所がない』と言ったが、これは河東の太守・杜畿のことである。秩禄を中二千石に増やすがよい」と述べました。
このようにして、杜畿は豊富に食糧を蓄え、曹操の征伐に貢献したことで、高く評価されたのでした。
また、曹操が漢中を討伐した際には、五千人を送って物資運搬の任務にあたらせます。
これを担当した者は自ら率先して励み「人の生には一度の死があるものだ。わが君に与えられた任務を果たさないわけにはいかない」と述べました。
そして一人も逃亡する者がなく、杜畿が河東の民の心を得ているのは、これほどのものだったのでした。
尚書になるも、再び河東に戻る
二一六年に曹操が魏王になり、魏国が建てられると、杜畿は尚書(政務官)に任命されました。
それが決まってから、次のような辞令が出されています。
「その昔、蕭何が関中を定め、寇恂が河内を平定した。卿にはそれと同等の功績がある。
卿に納言(尚書のこと)の職を授けようとしたが、河東はわしにとって手足のように重要な地域であることを思い起こした。
河東は充実しており、この地をもって天下を制するに足るほどだ。ゆえに卿は寝そべりながらこの地をなお治め続けてもらいたい」
杜畿は十六年に渡って河東にありましたが、常にその治績は天下で最も優れたものでした。
地位が高まるも、事故で亡くなる
その後、曹丕が王位につくと、杜畿は関内侯の爵位を与えられ、再び尚書に就任します。
まもなく曹丕が皇帝になると、豊楽亭候に爵位を高められ、百戸の食邑を与えられます。
そして司隷校尉(首都の行政長官)を代行するようにもなりました。
曹丕が呉の征討を行った際には、杜畿は尚書僕射となり、留守の間の政務を統括しています。
曹丕が許昌に行幸した際にも留守を守っており、信頼されていたことがうかがえます。
それから詔勅を受け、皇帝が乗るための御樓船を作るように命じられました。
そして陶河において試乗したのですが、その際に風を受けて沈没してしまいました。
こうして杜畿が亡くなると、曹丕は涙を流して悲しみます。
詔勅が出され「その昔、冥は官を勤めて水死し、稷は食糧の増産に励んで山中で死んだという。尚書僕射の杜畿は孟津において船の運行を試し、転覆して没したが、これは忠義の至りである。朕ははなはだしくこれを悼むものである」
太僕の地位が追贈され、戴侯と諡されました。
子の杜恕が後を継いでいます。
杜恕は優れた言論によって高く評価されましたが、無実の罪によって失脚し、父の功績によって処刑を免れています。
孫の杜預は呉を攻め滅ぼす戦いで活躍し、征南将軍となり、多くの封地を与えられて出世を遂げました。
杜畿評
三国志の著者・陳寿は「杜畿は寛大さと猛々しさを兼ね備え、恩恵をもって民をやすんじた」と評しています。
杜預は敵中に単身で乗り込んで反乱を鎮圧し、その後は善政をしいて土地を豊かにしており、優れた才覚を備えた人物でした。
混乱の中で曹操が頭角を表したのは、このように統治に秀でた人物を用い、治安の改善と食糧の確保に力を入れていたことが大きかったのだと言えます。
