馬超に味方した氐族の王・阿貴と千万について

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強端が呉蘭を斬る

益州を制した劉備は、さらに勢力を拡大するため、218年に配下の呉蘭ごらんを武都郡に派兵します。

これによって、涼州にも勢力を伸ばそうとしたのでした。

なおこの戦いには、劉備に臣従した馬超も参加しています。

これに対し、曹操は曹洪を司令官に任命し、防衛に当たらせました。

この動きの中で、氐族の強端きょうたんという将が呉蘭の首を取り、魏の司令官である曹洪に送ったという記録が残されています。

このことから、反乱に失敗して以後は、氐族は魏に協力的になっていたことがうかがえます。

このように、氐族は後漢の末期から三国時代において、西部で影響力を持っていたのでした。

苻堅が勢力を張るも、統一に失敗する

その後、三国もしんも滅び、五十六国時代が訪れると、氐族の苻堅ふけんが大陸北部に、魏と同程度の大勢力を築いています。

これは三国時代からおおよそ100年後のことで、この頃には、中国の領域内に移住した異民族たちの勢力が、非常に強くなっていたのでした。

苻堅は前秦ぜんしんの大王となり、南部に割拠する東晋を討って天下を統一しようとしましたが、あと一歩のところで大敗し、前秦は一気に弱体化しました。

これは苻堅が、多民族で構成される共和国を作ろうという先進的な理想を抱き、征服した民族の勢力を温存していたのが原因でした。

苻堅が強いうちはよかったのですが、敗れて弱くなると、それまで従っていた他の民族の者たちに裏切られ、やがて385年に殺害されてしまいます。

その後も前秦はかろうじて存続していましたが、394年になると、完全に滅ぼされてしまいました。

こうして氐族は覇権を握りかけたものの、統一を成し遂げることはできなかったのでした。

その後、580年に仇池きゅうちという氐族の国が滅ぼされ、随に組み込まれると、以後は漢民族との同化が進んだようで、中国の史書には名前が見られなくなります。

一方で、チベット付近に住んでいた氐族は、ミャンマーに移住してビルマ族の祖先となり、パガン王朝を建国したとも言われています。

氐族の特徴

氐族はみな槃瓠ばんこという、始祖神の子孫だと称していました。

槃瓠は天地創造を行った神だとされており、氐族は独自の神話体系を持っていたことがうかがえます。

(後漢では、槃瓠は犬として扱われており、貶められていたようです)

言語も独自のものを使っていましたが、大多数の者が中国語も話すことができました。

姓名も中国のものに似ていたそうなので、三国時代には、すでにかなり同化が進んでいたようです。

衣服は青や深紅を好み、布を織るのが巧みでした。

そして農耕も得意で、豚や牛、馬や騾馬らば驢馬ろばを飼っています。

羌族と共通するところが多く、結婚の際の風習や、言語や衣服まで、かなり似通っていたとされています。

このことから、もともと西部には規模の大きな民族がいて、そこから氐族や羌族など、いくつかの部族に別れたのではないかと推測されています。

氐族は、民族としての名称は使われなくなりましたが、その子孫はいまも中国やアジアの各地に存在しているのだと思われます。