魯粛と周瑜の主張
周瑜は使者の役目を果たすため、孫権の元を離れていたのですが、連絡を受けて急いで戻ってきます。
そして魯粛とともに、曹操軍が抱えている弱点を指摘し、戦うことを主張しました。
まず第一に、曹操の将兵たちは北方の兵で構成されており、騎兵戦は得意なものの、水戦には慣れていない、という点があげられました。
揚州を攻めるには、大河である長江を渡らねばならず、これが天然の防壁となっていました。
揚州の軍勢は逆に水戦になれており、この点が強みだったのだと言えます。
一方で、曹操は水戦になれている荊州軍を支配下においていましたが、まだ降伏させたばかりなので、彼らは曹操に心からは従っておらず、士気は低い状態でした。
このため、荊州軍はそこまで脅威にならない、ということも周瑜たちは指摘します。
そして季節は冬に向かっていく時期であり、気温が下がって馬のまぐさが確保しづらく、北方の兵は慣れない風土によって、体調を崩しやすい状態になります。
このため、曹操軍の内部では、必ず疫病が発生するだろうと、周瑜たちは予測しました。
このように、様々な不利を抱えているにも関わらず、曹操は数を頼みにして無理押しをしているので、撃破することは十分に可能だと、周瑜と魯粛は主張しました。
そして「曹操は自ら死地に入ってくるのですから、これを歓迎し、降伏する必要はありません」と結論を述べます。
【曹操と戦うように主張した周瑜】
孫権の決断
すると孫権は、剣を抜いて側にあった机を斬り、「これ以上、降伏を主張する者は、この机と同じになる」と述べ、開戦を決断したことを群臣たちに示しました。
そして孫権は周瑜に3万の軍勢の指揮権を与え、魯粛を参謀長に任命して、周瑜を補佐させます。
孫権自身は後方支援をしつつ、もしも周瑜が敗れた場合に備え、軍勢の一部を温存し、二度目の戦いに備えることにしました。
つまり呉は赤壁の一戦に、全てをつぎ込んだわけではなく、いくらかは余力を残していたのでした。
両軍の戦力
曹操は荊州を攻め落とすため、十五万の軍勢を率いていました。
そして降伏した荊州の七万の軍勢を合わせ、総勢で二十二万となっています。
一方、孫権が周瑜に与えたのは三万で、これがひとまずの呉の戦力となります。
そして劉備は、もともと率いていた一万の軍勢に加え、劉琦が指揮する一万の兵を合わせたので、最大で二万程度の兵力でした。
なので、二十二万対五万というのが、両軍のおおよその戦力だったのだと言えます。
この数の差だけを見れば、孫権の臣下のほとんどが、降伏を勧めたのも無理はありません。
しかし周瑜が指摘したとおり、曹操軍にはいくつかの弱点があり、数だけで圧倒できるかというと、怪しいところがありました。
そしてこの時、曹操自身もまた、荊州があっさりと手に入ったことで、思い上がって傲慢になり、油断していたという問題を抱えています。
張松を怒らせる
この頃、曹操のところには、益州を支配する劉璋の使者・張松が訪れています。
張松は曹操が強大なため、益州が攻めこまれないよう、同盟を結ぶために訪問していたのでした。
この時点では、益州は曹操寄りになっていたのです。
なので、そのまま交渉をうまく進めれば、荊州に続いて、益州も曹操の支配下に入る可能性が高い状況でした。
しかし曹操は、劉備を追撃して打ち破ると、もはや天下は自分のものになったも同然だと思い込み、張松を歯牙にもかけないような、失礼な態度を取ります。
このため、張松は怒り、益州に戻ると、「曹操には従わない方がよい」と劉璋に進言します。
そして張松が、しばらく後で劉備を訪ねると、曹操とは反対に、心からのもてなしを受けたので、彼に心を寄せるようになりました。
こうして曹操は益州を従わせるのに失敗し、後に劉備が蜀を建国するにいたる、きっかけを生じさせてしまったのでした。
ある史家は、「曹操はわずかな期間、傲慢になったため、それまでの数十年の積み重ねをだいなしにしてしまった。そして天下は三つに分かれた」と評しています。
大きな事業を成し遂げるには、その目標を達成する最後の時まで、決して気を緩めてはならないのですが、曹操はそれを怠ってしまったのでした。
赤壁で両軍が遭遇する
こうして荊州から揚州に向かう曹操軍と、迎撃のために出撃した周瑜と劉備の軍勢は、長江沿いの赤壁の地で遭遇し、戦いとなります。
そして初戦はまず周瑜・劉備連合が勝利し、曹操軍を押し戻しました。
このため、曹操は長江の北岸に陣営を構え、周瑜と劉備は南岸に陣を構え、対峙します。
この時の損害の規模は記録されていませんが、曹操が動じていないことから、さほど大きなものではなかったのだと思われます。
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